柿本神社

高津柿本神社

島根県益田市上高津町イ2612-1

晩年に国司として石見国に赴任した柿本人麿が、和銅年間に「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」の辞世の歌[1]を詠んで益田川河口(旧高津川河口)の鴨島に没したので、神亀年間にその霊を祀るために石見国司が聖武天皇の勅命を受けて鴨島に人丸社を創祀したのに創まるといい、また天平年間には人丸寺も建立したという[2]。

人麿の没年には、慶雲4年(707年)説、和銅2年(709年)説、神亀元年(724年)説などがあって定かではなく、またその終焉伝承地も安来市の仏島など島根県内だけでも各所にあって定説を見ないが、当神社の西方4kmほど離れた益田市戸田町の戸田柿本神社[3]には人麿が柿の木の下で生まれたという樹下誕生譚や遺髪塚があり、当地一帯が柿本氏と縁のあったことが想定できる[4]。ちなみに高津町や戸田町は、古く石見国美濃郡小野郷に相当し、郷名は古代豪族小野氏の移住、開拓に由来するとされるが[5]、柿本氏はその小野氏の支族である。

万寿3年(1026年)の地震とそれに伴う大津波で鴨島とともに海中に没したが、神像は高津の松崎に流れ着いたため、その地に社殿と別当寺としての人丸寺が再建された。その後、後鳥羽天皇の時代には石見国司平隆和によって社殿の改築と水田10町歩の寄進が行われている。

江戸時代に石見銀山奉行の大久保長安による造営と金の灯籠が献納され、更に延宝9年(天和元年とも、1681年)風水難を案じた津和野藩主亀井茲親によって高津城のあった現在地に移築された[6]。同じ頃、都にあっては霊元上皇が古今伝授に際して祈祷を命じたり、後に宸筆の御製歌を奉納したりと和歌の神として崇敬し、享保8年(1723年)、柿本人麿の一千年祭と称して「柿本大明神」の神号と正一位の神階が宣下された。また現地にあっても一千年祭を斎行するとともに、別当人丸寺を真福寺と改称している。以後歴代天皇を始め親王や公卿にあっては特別に法楽を営んで和歌を短冊に認めて奉納、歌道の上達を願う風が流行する一方、津和野藩では享保13年(1728年)に社領13石を寄せ、石見産紙の祖神に位置づけて、藩内第一の神社と崇めた。

慶応元年(1865年)に真福寺を廃して社号を「柿本神社」に改め、近代社格制度では県社に列した。

以上ウィキペディアより。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B4%A5%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E7%A4%BE



柿本神社

柿本神社 (3)
柿本神社に来ました。

こちら、あの有名な柿本人麻呂様を祀っているそうです。

柿本神社 (2)
コイ

柿本神社 (1)
落ち葉を焼いているようで煙が出てます。

柿本神社 (4)

柿本神社 (5)

柿本神社 (6)
手すりに詩みたいなの飾ってるのは歌人を祀ってるからですかね

柿本神社 (7)
手水舎

柿本神社 (8)
柿本人麻呂像

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
   長々し夜を ひとりかも寝む


柿本神社 (9)

柿本神社 (10)
ここで気づいたのですが予備として持って来ていた御朱印帳が既に埋まってるやつでした。慌てて旅立ったから気づかなかった。

強行軍過ぎたためかここでどっと疲れが出てきました。出雲からここまで来るのも長いもんなあ。江の川高校で有名な江津市とか通り抜けるのに時間かかるし。ずっと山の中の道ですし。

そろそろ帰路につくことが頭によぎった瞬間でした。