五條天神社

五條天神社

東京都台東区上野公園4-17

由緒
社伝によれば、日本武尊が東征のおりに大己貴命と少彦名命を上野忍が岡に祀ったものとされ、尭恵の『北国紀行』にも文明18年(1486年)1月に「五條天神」の記述がある[1][2]。

少なくとも室町時代中期には上野山に鎮座していることは明らか[3]だが、寛永寺の拡張などで社地は何度か移転しており[4][3]、江戸時代初期までは天神山上(現在の上野公園内摺鉢山上、清水観音堂のあたり)[1][3]、その後寛永寺黒門(旧本坊表門)脇(現在の上野公園南端)を経て[3]、元禄10年(1697年)に別当で連歌師の瀬川屋敷(現在のアメヤ横丁入口)へ遷座[1][3]。1928年(昭和3年)9月22日[4]に創祀の地に最も近い現在地に遷座された[1][3]。

また相殿の菅原道真公は、江戸時代に入り寛永18年(1641年)、社名に「天神」とあるため菅原道真公の像がなくてはと、天海および公海が開眼供養を修して[4]合祀され、俗に下谷天満宮(したやてんまんぐう)とも呼ばれて歌の道の祖神として信仰されたという[1]。

歴史
寛文2年(1662年)刊行の『江戸名所記』には東叡山寛永寺の黒門近くに上野の鎮守として尭恵により再興された「牛天神」と呼ばれる天満宮が鎮座していることと、忍が岡に鎮座する「忍岡稲荷」の記載がある[5]。

また、原本は寛政5年(1793年)、新板は文化14年(1817年)に刊行された『菅丞相往来』には、瀬川家持の「下谷天神社」は五條天神の相殿で、「五條天神」は少彦名命を祀ること、また小石川牛天神と混同されているが、かつて東叡山本坊近くに上野の鎮守として「天満宮牛天神」があったことが記載されている[6]。

さらに、天保5年(1834年)に刊行された『江戸名所図会』では「五條天神宮」の記載があり、元は東叡山寛永寺本坊辺りにあったが瀬川氏の地に遷座したこと、祭神は少彦名命1座で、北野天満宮が相殿であり、慈眼大師(天海)が開眼した菅神の像が寛永18年(1641年)に鎮座したこと記されている[7]。

江戸時代には東都七天神の一つとされ、また江戸三大天神や江戸二十五天神に数えられることもあった。

瀬川屋敷への遷座後、周囲は「五條天神門前」という町屋となり、明治2年(1869年)には「五條町」と改名されたが、1964年(昭和39年)に上野の一部となり消滅した。

2010年(平成22年)には縁起による鎮座1900年を記念して、2011年(平成23年)に予定されていた三年おきの大神輿渡御を繰り上げた大祭が行われた。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%A2%9D%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA)#%E8%8A%B1%E5%9C%92%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE



五條天神社

上野。お花見とか動物園とか東北への玄関ですね。

新宿よりで暮らしていた私にはめったに来ない場所でしたが。