「中国・四国地方の御朱印」
山口県の御朱印
山口大神宮
山口大神宮
山口県山口市滝町4-4
永正17年(1520年)、大内氏30代目の大内義興が伊勢神宮の神霊を勧請して創建したものである。
永正5年(1508年)6月、大内義興は山口に逃げてきた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、以降11年間京都に滞在し、管領代として幕政を執行した。その間の永正11年(1514年)、義興は伊勢神宮に参拝し、永正15年(1518年)8月に山口へ戻ると前例のない勅許を賜った上での皇太神宮、豊受大神宮の山口への勧請をしたいと思ったという。義興は、山口に帰国してすぐに伊勢神宮を勧請するための準備を始めた。伊勢神宮を勧請するための土地を探して、現在地の高嶺東麓を社地に定め、すぐに社殿建立を開始した。永正16年(1519年)11月3日に外宮、永正17年(1520年)4月8日に内宮を造営すると、吉田神社を通じて天皇に伊勢神宮勧請の許可を求め、後柏原天皇の勅許を得、て同年6月29日神宮の御師 高向二頭大夫光定により伊勢神宮の神霊を勧請、鎮座した。当初は高嶺神明と称していたが、後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後陽成天皇から「伊勢」の御宸筆勅額が授けられ、高嶺太神宮、今伊勢と呼ばれるようになった。式年遷宮は伊勢神宮遷宮前後相論に配慮し1540年に外宮・内宮同時に行われている。
当時の伊勢神宮は幕府の神宮頭人の力が及ばなくなり、全国の荘園から届く役夫工米が滞納された事により慢性的な財政難に陥り、外宮は1434年内宮は1463年より式年遷宮が中断していた。その反面、庶民による伊勢信仰は広まり南北朝時代頃よりには飛び神明といわれる伊勢神宮の勧請が流行し各地に神明神社が創建されていた。高嶺大神宮の勧請もそうした流れを受けたものであったが、江戸時代まで、伊勢神宮より勅許を得て神霊の勧請を受けたのは日本中で当社だけであった。(江戸期に入ると伊勢商人の手によって相模国に勧請され伊勢原大神宮が創建され式年遷宮もとり行われた。新編相模国風土記稿によると伊勢原村に「當村開墾の頃勧請せし所にて、伊勢の神廟に擬し、二十一年目毎に社頭修理を加へ、遷宮の式あり」と記載されている。)江戸時代に伊勢信仰が盛んになると、山口大神宮には特に西日本各地から多くの参拝者が訪れるようになった。今も参道脇には多くの「日参一万日成就」の石碑が残る。
昭和3年、県社に列せられ、社名を高嶺神社とした。昭和22年に現在の山口大神宮に改称した。
以上ウィキペディアより。


摂社の多賀神社の御朱印もいただけます。

三連休の二日目。お昼寝から目覚めた後、どこかに行かないともったいない気がしてきて旅立つ。
ひとまず四国を出るため、港に向かいます。

もう夜ですね。

真夜中の桜三里を抜け、松山港に到着。
閉まってますね。ベンチで待っている人がいます。

寒いし眠いので、どこかで時間をつぶさないと。

ファミリーマートのイートインでカップヌードルを食し、しばし休憩。

窓口がようやくあいた。

すでに疲労感がありますが、仕方ない。

フェリーで仮眠して、体力を回復させる。

金魚

気づけば夜明け

目的の県が近づいてきました。

さわやかな朝日。

上陸し、海沿いの道を走ります。


いい景色

途中すきやで栄養補給。安定の豚汁おしんこセット。

なんとか山口市に入り、神社に到着。

山口といえば大内氏ですね。陶氏以外に武官がいなくてこまるイメージ。

馬

由緒

摂社の稲荷神社

苔むしてます




石段を登る

手水舎


多賀神社

太鼓をたたく

石をさする

本殿へ向かう



西のお伊勢さま。すばらしいですな。
山口県山口市滝町4-4
永正17年(1520年)、大内氏30代目の大内義興が伊勢神宮の神霊を勧請して創建したものである。
永正5年(1508年)6月、大内義興は山口に逃げてきた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、以降11年間京都に滞在し、管領代として幕政を執行した。その間の永正11年(1514年)、義興は伊勢神宮に参拝し、永正15年(1518年)8月に山口へ戻ると前例のない勅許を賜った上での皇太神宮、豊受大神宮の山口への勧請をしたいと思ったという。義興は、山口に帰国してすぐに伊勢神宮を勧請するための準備を始めた。伊勢神宮を勧請するための土地を探して、現在地の高嶺東麓を社地に定め、すぐに社殿建立を開始した。永正16年(1519年)11月3日に外宮、永正17年(1520年)4月8日に内宮を造営すると、吉田神社を通じて天皇に伊勢神宮勧請の許可を求め、後柏原天皇の勅許を得、て同年6月29日神宮の御師 高向二頭大夫光定により伊勢神宮の神霊を勧請、鎮座した。当初は高嶺神明と称していたが、後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後陽成天皇から「伊勢」の御宸筆勅額が授けられ、高嶺太神宮、今伊勢と呼ばれるようになった。式年遷宮は伊勢神宮遷宮前後相論に配慮し1540年に外宮・内宮同時に行われている。
当時の伊勢神宮は幕府の神宮頭人の力が及ばなくなり、全国の荘園から届く役夫工米が滞納された事により慢性的な財政難に陥り、外宮は1434年内宮は1463年より式年遷宮が中断していた。その反面、庶民による伊勢信仰は広まり南北朝時代頃よりには飛び神明といわれる伊勢神宮の勧請が流行し各地に神明神社が創建されていた。高嶺大神宮の勧請もそうした流れを受けたものであったが、江戸時代まで、伊勢神宮より勅許を得て神霊の勧請を受けたのは日本中で当社だけであった。(江戸期に入ると伊勢商人の手によって相模国に勧請され伊勢原大神宮が創建され式年遷宮もとり行われた。新編相模国風土記稿によると伊勢原村に「當村開墾の頃勧請せし所にて、伊勢の神廟に擬し、二十一年目毎に社頭修理を加へ、遷宮の式あり」と記載されている。)江戸時代に伊勢信仰が盛んになると、山口大神宮には特に西日本各地から多くの参拝者が訪れるようになった。今も参道脇には多くの「日参一万日成就」の石碑が残る。
昭和3年、県社に列せられ、社名を高嶺神社とした。昭和22年に現在の山口大神宮に改称した。
以上ウィキペディアより。


摂社の多賀神社の御朱印もいただけます。

三連休の二日目。お昼寝から目覚めた後、どこかに行かないともったいない気がしてきて旅立つ。
ひとまず四国を出るため、港に向かいます。

もう夜ですね。

真夜中の桜三里を抜け、松山港に到着。
閉まってますね。ベンチで待っている人がいます。

寒いし眠いので、どこかで時間をつぶさないと。

ファミリーマートのイートインでカップヌードルを食し、しばし休憩。

窓口がようやくあいた。

すでに疲労感がありますが、仕方ない。

フェリーで仮眠して、体力を回復させる。

金魚

気づけば夜明け

目的の県が近づいてきました。

さわやかな朝日。

上陸し、海沿いの道を走ります。


いい景色

途中すきやで栄養補給。安定の豚汁おしんこセット。

なんとか山口市に入り、神社に到着。

山口といえば大内氏ですね。陶氏以外に武官がいなくてこまるイメージ。

馬

由緒

摂社の稲荷神社

苔むしてます




石段を登る

手水舎


多賀神社

太鼓をたたく

石をさする

本殿へ向かう



西のお伊勢さま。すばらしいですな。
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