2019年12月

大日寺

大日寺

徳島県徳島市一宮町西丁263

寺伝によれば、弘仁6年(815年)に空海がこの付近にある「大師が森」で護摩修行をしていると大日如来が現れてこの地が霊地であるから一寺を建立せよと告げた。そこでその大日如来の姿を刻み、堂宇を建立して本尊として安置し「大日寺」と称したという。

その後、伝承では平安時代末期に、阿波一宮が神山町の上一宮大粟神社にあるのでは不便ということで当地に分詞され阿波一宮神社が造られると当寺はその別当寺となったが、南北朝時代に、当神社の東の144.3mの山の頂近くに一宮城が造られ、その城主であった一宮氏が当神社を深く崇敬し大宮司を兼ねる関係であったため、その後の天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって一帯がすべて焼失し一宮氏は没落したが、江戸時代初期、徳島藩3代藩主になった蜂須賀光隆も当神社を崇敬し、当神社と当寺を再建した。

また、いつの頃か、当神社が札所になると当寺は納経所として、「本尊大日如来 一宮大明神 大栗山大日寺」と記帳するようになり、一宮寺とも呼ばれるようになっていた。

明治初期の神仏分離によって、当神社の本地仏であった行基作[注釈 1]といわれる十一面観音を当寺の本堂に本尊として移され、それまでの本尊大日如来は向かって右の厨子に秘仏の脇仏とされ、当寺は神社の別当ではなくなった。

現住職の金昴先(キムミョウソン)は韓国の伝統舞踊家として1995年に訪日し、翌年に前住職の大栗弘榮住職と結婚し一人息子の弘昴(こうみょう)を授かる。2007年に前住職が遷化すると帰国も考えたが、息子が大人になり後を継ぐまではと、本山の大覚寺で修行をして八十八箇所霊場で唯一の外国籍住職となった[2]。その後、弘昴は米国に渡り就学、カルフォルニアの大学[3]に入学中に休学し高野山専修学院に一年間入学して僧侶の資格を得てのち復学し、卒業後は大日寺の住職となり母親の後を継ぐ予定である[4]。[5][6]

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%AF%BA_(%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%B8%82)



大日寺

四国八十八箇所霊場十三番札所です。

大日寺 (1)

自分宛に注文していたお歳暮のイクラとクリームコロッケを受け取ることに成功したので一宮町の大日寺へ。

この辺は新入社員のころに担当地区だったので懐かしい。

大日寺 (2)

大日寺 (4)

手水舎

大日寺 (3)

しあわせ観音

大日寺 (6)

大日寺 (7)

大日寺 (5)

大師堂

大日寺 (8)

大日寺 (10)

荷物受け取って散歩して参拝してクリーニング出して洗濯してと充実した土曜日を過ごす。

ロゼ

夜は前の会社の同期と飲み会。豪遊。

来年は倹約します。

牛窓神社

牛窓神社

岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓2147

由緒
 当社は原初の頃は、土地の神霊及び氏の祖先の神霊をまつっており、牛窓明神と呼ばれていたが、長和年間、教円大徳によって豊前(大分県)の宇佐八幡宮から応神天皇・神功皇后・武内宿禰命・比賣大神の御神霊をお迎えして牛窓八幡宮となり、明治6年郷社に列せられ牛窓神社と改称した。
 社伝によれば、鎌倉・室町時代の山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)の古文書に「牛窓別宮」の名があり、当時牛窓が石清水領であったと共に社格が大変高かったようである。神階は従三位、式外社、備前国古社128社の内の1社にして明治6年郷社に、明治42年神饌幣帛料供進神社に、昭和15年県社に、それぞれに列せられたが、終戦と共に社格は廃止された。
 弘治元年(1555)芸州の乱の時、海賊の焼打ちに遭い、全山を焼失し、社殿、宝物、記録等全てを失った。
 当時、牛窓は内海帆船時代であり、交通運輸の重要港に成長し、藩の政治、住民の経済力の増加を背景に、神社に対する信仰心も高まった。 
 江戸時代、特に寛政、文化の頃から境内を拡大し、社容を整えた。特に本殿は近世の社寺建築の粋を凝らしたもので、牛窓町の重要文化財に指定されている。
 尚、当社の例祭は、毎年10月第4日曜日に行われ、神輿やダンジリの巡幸など港町の風情溢れる祭り絵巻が終日堪能できる。

以上岡山県神社庁ホームページより。 https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/17943/



牛窓神社
ワイルドな書きっぷりの御朱印。

牛窓神社 (1)
五香宮から少し車で走ると到着。

木が生い茂っていますね。

牛窓神社 (2)
手水舎。

牛窓神社 (3)

牛窓神社 (4)
参拝客結構いました。

オリジナル御朱印帳もありました。

ダントツラーメン
岡山を発つ前にダントツラーメンでランチ。二郎系は徳島にないのでついつい来てしまった。

昨日飲んだ先輩は焼肉のあとに野菜8倍増しを頼んで死亡したそうなので皆さん食べられる範囲で注文しましょうね。

五香宮

五香宮

岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓2720

由緒
本社の主祭神たる住吉三神は、牛窓神社の神々と共に、牛窓地名起源説話にて御活躍の神々である。即ち牛窓神社の項と重複するも、備前国風土記逸文に次の如き記述が有り、
 牛窓地名の由来(備前國風土記逸文)
 神功皇后のみ舟、備前の海上を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、出でてみ舟を覆さむとしき。住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて投げ倒したまひき。故に其の處を名づけて牛輔と日ひき。今、牛窓と云ふは訛れるなり。
即ち「神功皇后西国御遠征の砌、牛窓沖にて牛鬼の難に逢われ、危うき処を住吉大明神に救われた事がうかがわれる」のであり、茲に五香宮の鎮座の淵源が有る。五香宮古記録に依れば、「神功皇后は、住吉大明神の御加護に感謝、此の地に古くから住吉宮の存する事を聞こし召されて牛窓の浦に上陸なされ、自ら親しく住吉宮へ御参拝され、武運長久、航海安全、安産祈願(御懐妊中)等を御祈願なされた。そして御神前にて御腹帯を召され、御鎧を付けられた上で西国に御出発され、瀬戸内各地に御事蹟を残されながら、西国との和平を実現。御帰還の途次、再度牛窓の浦に上陸、家来の武内宿禰ともども、住吉宮に御参拝になり、戦勝に感謝、品陀別尊の無事出産を御報告なさり、神恩に報いる為に、御自ら御着用の御鎧一領、御冑、御太刀、御腹帯、御馬具等を御奉納なされたと言う」正に赫々たる古事来歴を持つ、備前国有数の古社である。しかしながら、牛窓神社と同じく弘治元年(1555)の芸州の乱にて、海賊多数蜂起して、牛窓の浦に来襲、住吉宮もその災いに逢い、神功皇后ゆかりの御神宝は幸いに難をまぬがれるも、古記録、棟札等は焼失したと言われる。
下って江戸時代寛文6年7月、藩主池田光政公は牛窓神社に参拝され、その時に往吉宮の造営の由を仰せ出だされ、社殿が再建されるや、寛文7年8月、京都伏見の御香言から改めて、神功皇后と応神天皇の御神霊を勧請せしめて、往吉宮を五香宮と改称するべく命じられたのである。それ以来、五香宮は池田家の守護神とし朝野の崇敬を集め、延宝8年には綱政公が瑞垣並に鳥居を、継政公は直筆の繋馬の扁額を奉納され、以来、社殿や玉垣の修復は池田家によって行なわれる事となったのである。又、一般には、武神として、航海安全神として、安産神として尊崇され、殊に戦前に於いては、武運長久を祈る人々が連日県下各地より多数参拝し、生めよ増やせよの世相ゆえに、安産祈願の参拝者も又多数参拝祈願に訪れたのである。かくして今も尚五香言は歴史と伝統を静かに秘めて、流れの速き唐琴の瀬戸を眼下に臨む高台に鎮まっておられるのであり、歴史を訪ねての参拝者が絶える事はない。現存の社殿は、大正七年の大造営にかかる神明造り銅板葺きである。

以上岡山県神社庁ホームページより。 https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/17941/



五香宮
御朱印は牛窓神社でいただきました。

五香宮 (1)
五香宮まで来ました。牛窓というところにあります。

牛窓は日本のエーゲ海と書かれていました。海がきれいな場所です。

個人的にはここまでくる道が激狭くて対向困難なことのほうが印象的でした。車で来るときは皆さん気をつけてください。

五香宮 (2)
手水舎。

五香宮 (3)
ネコ

五香宮 (7)
ネコ

五香宮 (8)
ネコ

五香宮 (4)
由緒

五香宮 (5)

五香宮 (6)
なんかネコいっぱいいるなーと思ったけど漁港だから魚が食べられるからですね。

和気神社

和気神社

岡山県和気郡和気町藤野1385

概要
同地は和気氏の発祥の地であり、和気氏の遠祖である鐸石別命(ぬでしわけのみこと)を氏神として祀ったのが起源とされる。創建年代は不詳。天正19年(1591年)に社殿が水害に遭い現在地に遷座した。

明治42年(1909年)和気氏の祖先で鐸石別命の曾孫にあたる弟彦王(おとひこおう)、和気清麻呂、和気広虫も祭神として加えられた。また国造神社に祀られていた佐波良命、伎波豆命、宿奈命、乎麻呂命が合祀された。

大正3年(1914年)和気神社と復称。大正8年(1919年)応神天皇を相殿として祀り、県社に列した。県社ながら、昭和天皇の岡山行幸の際には幣帛を賜わるなど、官国幣社と同等に扱われた。

境内
拝殿前には全国的にも珍しい狛猪がある。猪が清麻呂の宇佐神宮参拝の際に護衛を行ったり、足を患った際に霊泉に案内したとされることから、清麻呂の守護とされてきたことに由来する。

現存の社殿は、明治18年(1885年)より順次建替えられている。邑久大工の田淵耘煙斎勝義の手によるもので、本殿・幣殿・釣殿・拝殿・随神門が一連の作となっている。明治の建築とはいえ、邑久大工の代表的な建築様式であり、装飾彫刻類もすばらしく、和気町指定文化財になっている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE



和気神社

和気神社 (1)
和気神社に到着。

和気神社 (2)
周辺はこんな感じ。

和気神社 (3)
鳥居。

和気神社 (4)
橋がかけられてます。

和気神社 (5)
和気清麻呂公の像です。

和気神社 (6)
和気町の出身だから和気清麻呂って名前なんですね。

和気神社 (7)
別アングル。

和気神社 (8)
いのしし

和気神社 (9)

和気神社 (11)
石段を登る。

和気神社 (12)
和気広虫姫像。

和気神社 (13)
再度清麻呂公像。

和気神社 (14)
手水舎。

和気神社 (17)
全国的に珍しい狛いのしし

和気神社 (18)
撫で猪。

撫で牛は天満宮で見かけますが、猪はレアですね。

和気神社 (15)

和気神社 (16)
知り合いに和気って苗字の人いるんですけど、先祖は清麻呂公かもしれないですね。

歴史を感じるシブい苗字ですな。

由加神社

由加神社

岡山県和気郡和気町大田原438

由緒
 当神社の創立は不詳であるが、現存している最古の棟札には平安時代後期天永3年(1112)和気氏が新田郷の総鎮守として西久保方の上山上に八幡宮を建立したことが記されている。
 爾来、和気氏(郡司)藤原氏(地頭)明石、浦上 宇喜多氏、池田氏等有力者の崇敬が篤く、特に、播磨、備前、美作の守護であった赤松氏の崇敬が篤かった。南北朝時代、赤松則祐が足利尊氏に従い、九州で戦った時、宇佐八幡宮、神功皇后宮に参拝し戦勝祈願を行なったところ軍利を得たので神助に報いるため建武4年(1338)当神社を新しく造営し、現在地に遷宮した。
 明治5年郷社に列せられ、由加神社と改称した。明治42年各地区のお社を当社に合祀し、現在に至る。
 御宝物は神功皇后御鎧及び御陣草履、赤松則祐奉納御鎧、赤松政則奉納御鎧、明石景行奉納矢等がある。

以上、岡山県神社庁ホームページより。 https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/17903/



由加神社
書置きをいただきました。

すきや
昨日飲み疲れたせいか独房のような部屋でも眠れました。

すきやで朝ごはん食べます。豚汁おいしい。

由加神社 (2)
せっかく岡山まで来ていますので、神社巡りします。和気町の由加神社に来ました。

由加神社 (1)
こんな感じの道沿いに鎮座。いい雰囲気の道ですな。

由加神社 (3)
鳥居。

由加神社 (4)
手水舎。

由加神社 (5)

由加神社 (7)
工事中ですね。

由加神社 (6)
工事中ですけど、七五三とかで参拝客結構いました。

地元ではメジャーな神社なんでしょうね。

最上稲荷山妙教寺

最上稲荷山妙教寺

岡山県岡山市北区高松稲荷712

歴史・概要
岡山県内で唯一、明治初年の廃仏毀釈の被害を逃れた所といわれ、日蓮宗系「神仏習合」の祭祀形態を現在も残す。

本尊
祈祷本尊は最上位経王大菩薩(稲荷大明神)。最上位経とはすなわち法華経のことである。像容は右手に鎌、左肩に稲束を背負い、白狐にまたがる天女の姿をしており、稲荷神の本地とされる荼枳尼天の像容とその特徴を同じくする。

創建伝承
寺伝によれば、報恩大師が天平勝宝4年(752年)に孝謙天皇の病気平癒の勅命を受けて、吉備山中の八畳岩で修法し、最上位経王大菩薩を感得、天皇は全快したことに始まるという。

また後に桓武天皇の病気平癒祈願の功徳により、寺院建立の寄進申し出があった。これにより大師が霊地を求めていたある日、最上位経王大菩薩より「備中国、龍王山麓に堂宇を定むるべし」との宣告があり、このことを天皇に進言。天皇はその祈願所としてさっそく龍王山神宮寺を寄進創建した。これが現在の妙教寺であるという。

近世以降
羽柴秀吉の中国進攻の際に戦火により焼亡するも、江戸時代初期の慶長6年(1601年)この地を治めた旗本の花房職之が関東地方より日円聖人を招聘し、「稲荷山妙教寺」として再興した。このときに天台宗から日蓮宗へ改宗した。

寛保元年(1741年)に建立された霊応殿本殿(旧本殿)は岡山市重要文化財に指定されている。現在の本殿(霊光殿)は昭和54年 (1979年) に建造された。明治14年(1881年)に建立された根本大堂は老朽化のため、平成18年(2006年)に移転、修復された。2009年、本堂(根本大堂)など33件が国の登録有形文化財に登録された。

なお、昭和26年の宗教法人法の施行に伴い、信徒や有識者の勧めにより、妙教寺の第23世の稲荷日宣の代にして昭和29年7月に、宗教法人・最上稲荷教として日蓮宗から独立、包括法人を組織したが、55年後の平成21年7月24日、26世稲荷日應の判断により、傘下の寺院とともに日蓮宗に復帰した。日蓮宗には一般の寺院として復帰したが、「最上稲荷総本山」の通称は、引き続き使用される。初詣シーズンには毎年岡山県下最大の参拝客(約60万人)で賑わう。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%A8%B2%E8%8D%B7



最上稲荷

吉備サービスエリア
先輩に会いに岡山に向かいます。洗濯してクリーニング出してユニクロで荷物受け取ったらもう昼になってしまった。

吉備サービスエリアで小休憩。

たこ焼き
ランチはたこ焼き。粉もんおいしい。

最上稲荷 (18)
先輩との合流時間まで余裕があるので最上稲荷に向かう。

でかい鳥居。

最上稲荷 (1)
駐車場に300円払う。

無料のとこもあるのかな?お土産やのとこに停めてしもた。

最上稲荷 (2)
ポスター。

こちらのお寺、岡山で一番初詣で混むそうな。

最上稲荷 (3)
日本三大稲荷とのこと。

伏見、笠間、祐徳、豊川?5つでてきてしもたわ。

最上稲荷 (4)
ネコ

最上稲荷 (17)
きつね

最上稲荷 (8)
秀吉が陣を構えたんですね。

備中高松城。清水宗治は信長の野望だとめっちゃカタイんですよね。強キャラ。

最上稲荷 (9)
縁切りと縁結びの末社がありました。

最上稲荷 (6)
お炊き上げ

最上稲荷 (5)
でかい!流石日本三大稲荷。

最上稲荷 (7)
注連縄も立派。

ベッド
宿にチェックイン。独房のような部屋やな。

古粋 (1)
先輩と合流し、古粋という居酒屋に。

岡山の地酒飲み比べ。

古粋 (2)
大山鶏の竜田揚げ。

岡山っぽいもの食べられてよかったです。他にも下津井の蛸とか鰆食べました。

その後二次会に繰り出しましたが、3軒目で睡魔に襲われダウン。

ごちそうさまでした。