2017年10月

防府天満宮

防府天満宮

山口県防府市松崎町14番1号

防府天満宮(ほうふてんまんぐう)は、山口県防府市にある神社。菅原道真を学問の神として祀った天満宮である。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。

道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗る。かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが1873年に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称。戦後の1953年には防府天満宮と再び改称した。道真が宮中での権力争いで失脚し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、日本三大天神と言われている。
防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた都市であり、年間を通して天満宮の行事での来訪者が多い。また市外からの来訪者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録している。有名な祭りとしては2月の牛替神事(うしかえしんじ)と11月の御神幸祭(ごじんこうさい)が挙げられる。御神幸祭は別名裸坊祭(はだかぼうまつり)ともいい、約1トンある御網代(おあじろ)を引っ張って、行きは表参道の大階段を下り、帰りは表参道の階段を上っていくという危険なことをするために、毎年怪我人が絶えない。また牛替神事は、天神様の乗られる牛車を引く牛を取り替えるということでの儀式である。その他、8月3日から5日までは、道真の生誕を祝う御誕辰祭が行われる。夜には1000本あまりの蝋燭に火を灯した万灯祭献灯で表参道が飾られるほか、最終日には防府天満宮夏祭り大花火大会も行われる。
道真は学問の神とされているため、ここで筆を買ったり、受験のお守りを買う若者の参拝も多い。
春には太宰府天満宮などと同様、梅の花が開き境内を飾る。
境内の西側には、春風楼と名付けられた楼閣式の参籠所がある。当初は、長州藩第10代藩主の毛利斉熙が、文政5年(1822年)から五重塔の建立に着手したが、天保2年(1831年)に不慮の支障によって工事は中断、幕末の動乱などが妨げとなって五重塔は完成しなかったものの、当時着工されていた組物(寺院建築の軒荷重を支える部材で、斗と肘木からなる)を床下に組み入れる形で、明治6年(1873年)に作られた。春風楼からは防府市街地が一望できるほか、御誕辰祭などの行事でも利用されている。
以前の社殿は江戸中期の建立であったが、1952年に焼失。現社殿の設計は山口県出身の京都大学教授村田治郎の指導で、工学博士の杉山信三が設計図を担当、1958年に完成、2009年に登録有形文化財に登録された。

以上ウィキペディアより。

s-防府天満宮

s-防府天満宮 御朱印帳
オリジナル御朱印帳あります。

御朱印帳袋
なぜか御朱印帳袋も購入してしまった。

防府天満宮 (3)
山口遠征最後の神社は防府天満宮です。有名な神社ですね。

防府天満宮 (2)

防府天満宮 (12)
石段を上る

防府天満宮 (13)
撫で牛

防府天満宮 (4)
天満宮恒例大量の絵馬

防府天満宮 (10)
撫で牛

防府天満宮 (11)
手水舎

防府天満宮 (7)

防府天満宮 (8)

防府天満宮 (6)

防府天満宮 (5)
流石日本三大天神。立派な神社でした。

かつや
帰り道でかつやで遅めの昼食。重たい。

柳井港 (1)
柳井港に到着。フェリーもちょうどいいのがありました。

柳井港 (2)
フェリーでしばし休憩。松山についたら夕方やな。

なかう (2)
夜の道をひたすら進む。途中灯りに導かれる蛾のようになか卯に立ち寄る。

なかう (1)
牛丼美味いわ。今回の旅の食事、チェーンのどんぶり店ばっかりですね。地元の名産とかガン無視してしまいました。

それもまたよし。真夜中に無事に帰宅しました。二日ぐらい疲れが取れませんでした。



玉祖神社

玉祖神社

山口県防府市大字大崎1690

玉祖神社(たまのおやじんじゃ)は、山口県防府市大崎にある神社。式内社、周防国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。通称たまっさま。
同市内にある同名の神社3社、および大阪府八尾市にある玉祖神社は当社から勧請を受けたもので、当社はこれら玉祖神社の総本社である。

物証はないが、勾玉や管玉を作る集団である玉造部が祖神玉祖命を祀るために創建したと考えられている。
日本書紀によれば、景行天皇が熊襲征伐のために西行する途中、この地の神夏磯媛(かみかしひめ)を長とする一族が神器を捧げ恭順を示し、このとき天皇は玉祖神社で戦勝祈願したという。
社伝によれば、祭神の玉祖命がこの地で亡くなったため、社殿を造営して祀ったのに始まるとされ、附近には玉祖命の墳墓と伝えられる「玉の石屋」がある。平安時代には周防国一宮として崇敬を受け、中世以降も歴代領主から崇敬された。神階は康保元年(964年)に従一位まで昇った。
東大寺再建の用材調達のために佐波川流域を訪れていた俊乗坊重源は、その完成の感謝として建久6年(1195)に玉祖神社に社殿と10町の免田を寄進した。社では重源が加判した「周防国一宮造替神殿宝物等目録」(国・重文)を所蔵している。

以上ウィキペディアより。

玉祖神社

玉祖 (1)
下関から東に突き進み、到着。

玉祖 (2)
バイパスで参道が削られたんですね。

玉祖 (3)
長い参道。

玉祖 (4)

玉祖 (6)

玉祖 (5)
手水舎

玉祖 (7)

玉祖 (8)
ご朱印は書置きがおいてありました。旅人には優しい使用ですね。



住吉神社

住吉神社

山口県下関市一の宮住吉一丁目11-1

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、山口県下関市一の宮住吉にある神社。式内社(名神大社)、長門国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
大阪の住吉大社・博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1つに数えられる。本殿は国宝に指定されている。

『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では長門国豊浦郡に「住吉坐荒御魂神社三座 並名神大」と記載され、三座が名神大社に列している。
創建の由緒から軍事と海上交通の神として厚い崇敬を受け、鎌倉時代に入ると、源頼朝を始め歴代将軍からの社領などの寄進を受けた。戦国時代に一時衰微したが、大内氏、毛利氏からの崇敬を受けて復興し、江戸時代には長州藩主毛利氏によって社殿の修復が行われた。
明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣小社に列し、明治44年(1911年)には官幣中社に昇格した。

以上ウィキペディアより。

住吉神社

住吉神社 (2)
道に迷うも、ガソスタのおじさんの助けで何とか到着。

住吉神社 (3)
ちょっと奥まった位置にありますが、立派な神社です。

住吉神社 (4)

住吉神社 (5)
手水舎

住吉神社 (6)

住吉神社 (7)

住吉神社 (8)

住吉神社 (9)
目的とする一の宮に参拝できました。下関をあとにします。

赤間神宮

赤間神宮

山口県下関市阿弥陀寺町4-1

赤間神宮(あかまじんぐう)は、山口県下関市にある神社である。旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。
江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は『耳なし芳一』の舞台であったが、廃仏毀釈により神社となり現在に至る。

貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開闢。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた。以後、勅願寺として崇敬を受ける。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が明治22年(1889年)7月25日、「擬陵」として公式に治定された。天皇社は明治8年(1875年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格した。昭和15年(1940年)8月1日、官幣大社に昇格し赤間神宮に改称した。
第二次大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工した。
昭和60年(1985年)、源平八百年を期に全国平家会が設立され、石川県輪島市にある平時忠の子孫「時国家」に御分霊が親授された。その際に邸内社が建立され「能登安徳天皇社」の称号が授与された。

以上ウィキペディアより。

赤間神宮

赤間神宮 (1)
亀岡八幡宮から道沿いに進むと到着。

赤間神宮 (2)
立派な鳥居です。

赤間神宮 (3)

赤間神宮 (4)

赤間神宮 (7)
平家物語終焉の地。海のそこにも都があるのですよ。

義経
義経

碇
碇知盛 「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」

亀山八幡宮

亀山八幡宮

山口県下関市中之町1-1

亀山八幡宮(かめやまはちまんぐう)は、山口県下関市にある神社である。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。通称亀山さま。
応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を主祭神とし、仁徳天皇・武内宿禰をあわせ祀る。

享保年間の『防長社寺由来』によれば、貞観元年(859年)、行教が宇佐から石清水へ八幡神を勧請する途中、当時は島だった亀山に碇泊した。そのとき、「この山は清浄な地であるので、しばらく祀ってから先へ進んでほしい」と神託があったため、亀山に行宮が設けられた。この行宮が当社の起源であるという。
関門海峡鎮護の神社として歴代領主の大内氏・毛利氏らの崇敬を受け、下関の総鎮守、長門国三宮とされた。1874年(明治7年)に郷社に列し、1890年(明治23年)に県社に昇格した。1968年(昭和43年)に神社本庁の別表神社に加列された。
境内には、山陽道の終点を示す碑が建てられている。

以上ウィキペディアより。

亀山八幡宮

お亀明神社
摂社のお亀明神社の御朱印もいただけます。


朝食
カプセルホテルで朝食を食し、出発します。

亀山八幡宮 (2)
帰る前に下関で神社巡りです。

亀山八幡宮 (3)
手水舎

亀山八幡宮 (7)
摂社

亀山八幡宮 (8)

亀山八幡宮 (9)
亀がいっぱい

亀山八幡宮 (10)
ミドリガメですかね

亀山八幡宮 (11)

亀山八幡宮 (5)

亀山八幡宮 (6)
亀も見えたし、満足です

元乃隅稲成神社

元乃隅稲成神社

山口県長門市油谷津黄498

1955年(昭和30年)に、地元の網元であった岡村斉の枕元に白狐が現れ「吾をこの地に鎮祭せよ。」というお告げがあったことを元に、太皷谷稲成神社(島根県津和野町)から分霊されて建立された。全国の稲荷神を祀る神社が「稲荷神社」と記すのに対し、「稲成神社」の字を充てているのはこのためである(全国で約4万社ある「稲荷神社」に対して、「稲成神社」はこの2社のみ)。商売繁盛、大漁、海上安全は元より、良縁、子宝、開運厄除、福徳円満、交通安全、学業成就、願望成就の大神[1]として、地域の人々の信仰を集めている。

元乃隅稲荷神社
神社から日本海側に見下ろした先には、断崖下の海蝕洞に荒波が打ち付ける度に海水が中の空気と一緒に吹き上がる現象が見られる「龍宮の潮吹」があり、神社の間に1987年(昭和62年)から10年かけて奉納された123基の朱色の鳥居が、龍宮から100メートル以上に渡り並んでいる。また、裏参道出口付近にある大鳥居の中央上部(高さ約4m)に設置された、「日本一入れづらい」とも言われる賽銭箱は、見事賽銭を投げ入れることが出来れば願いが叶うと言われている。
アメリカのニュース専門放送局・CNNが2015年3月に発表した「Japan's 31 most beautiful places」(日本の最も美しい場所31選)の一つとして選ばれた。

以上ウィキペディアより。

稲荷神社
書置きをいただきました。

秋吉台 (2)
山口市の次は萩市に行くつもりでしたが、どうも時間が微妙そうなので萩市はあきらめることに。

秋吉台を通っていくことにしました。

秋吉台 (5)
いい景色

秋吉台 (7)

秋吉台 (6)
どうも私はカルスト地形が好きなようです。

稲荷神社 (1)
長門市に入り、目的の神社の近くにきたのですが、恐ろしいほどの渋滞が。

稲荷神社 (2)
道が細く、曲がりくねっているため先が見えません。

稲荷神社 (3)
遠くまで渋滞が見えますね。

稲荷神社 (4)
日本の最も美しい場所31選だけあって、人気のようです。

稲荷神社 (5)
どうにか駐車場につきました。

稲荷神社 (6)
標識に従います。

稲荷神社 (7)
結構あるいて到着。

稲荷神社 (8)
おー。見覚えある風景。

稲荷神社 (9)
赤い鳥居は映えますね。

稲荷神社 (10)
日本海が一望できます。

稲荷神社 (11)
本殿はこじんまりとしてますね。混みまくりです。

下関 (2)
渋滞の影響で、下関の宿に着くのが遅くなってしまった。下関の商店街はコリアタウン化しているのか、焼肉店が多くて店に入りにくい。

チューハイ
カプセルホテルでセブンイレブンのつまみとチューハイの夕食。たまにはこういうのもいいでしょう。



古熊神社

古熊神社

山口県山口市古熊1丁目10−3

古熊神社(ふるくまじんじゃ)は、山口県山口市にある神社(天満宮)である。「山口の天神様」と通称される。

菅原道真を主祭神とし、道真の子の菅原福部童子を配祀する。
福部童子は11歳のときに、左遷された父を慕って太宰府へ向ったが、山口で夏病みにかかり亡くなった。福部童子は今市の甘露院に葬られ、当社創建後は当社にも祀られた。福部童子が亡くなった8月25日には福部祭が行われる。

応安6年(1373年)10月、大内弘世が北野天満宮より勧請を受けて創建した。当初は山口・北野小路に鎮座していたが、後に数度の遷座を経て長者山の麓の御石の森に鎮座した。元和4年(1618年)、毛利秀就が現在地に社殿を移した。

以上ウィキペディアより。

古熊神社

古熊神社 (1)
野田神社にあった案内に従い、古熊神社にきました。

古熊神社 (2)

古熊神社 (3)
ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。

古熊神社 (4)
暑さに苦しみながら石段を登る。

古熊神社 (11)


古熊神社 (10)


古熊神社 (5)
境内図

古熊神社 (6)
手水舎

古熊神社
天満宮恒例の絵馬

受験生の悲痛な祈り

古熊神社 (9)
撫で牛

古熊神社 (7)

古熊神社 (8)
豊榮神社・野田神社 のご朱印もいただくことができました。

次の目的地へ向かうため、山口市を後にします。


今八幡宮

今八幡宮

山口県山口市八幡馬場22

室町時代に記された『二十二社註式』によれば、初め宇治皇子一座を祀り今八幡宮と称し、守護大名大内氏の山口入府以前から存した。この社の創建年代は不明であるが、鎌倉時代の弘安年間、大内弘成の娘に「今八幡殿」という名が見えることから、これ以前の古社であることが判る。

 文明3年(1471)大内政弘が山口の鎮守と定めて市内の朝倉八幡宮を遷して合祀し、社号はそのままに主祭神を応神天皇とし、他に三座が加列される。その後、文亀3年(1503)大内義興が社殿を造替、明との交易で得た莫大な財力を象徴する荘厳なもので、現在国の重要文化財に指定されている。

 当宮は大内氏の居館(大内館)北東の鬼門除けにあたる守護であり産土神であることから、山口町の総氏神として「山口総鎮守」の尊称を賜り、歴代当主の崇敬は極めて篤く、そのことは『大内氏壁書』の文明10年(1478)条に大内政弘より布達された「今八幡宮条々」において当時の広大な神域を維持・保護するため種々の触書が出されたほか、常に当主の参拝や寄進が行われた。大内義隆はその財力を誇示する巨大な鰐口を寄進しているほか、神道に強い感心を寄せて都から吉田兼右を招聘し、宮司共々神道伝授を受けている。さらに貴族風な義隆は網代車で社参するなど、その権勢は山口を中心に最高潮に達した。

 大内氏滅亡後も、引き続き毛利氏により当宮は篤く保護され、神領が寄進されたほか、修繕の際の費用は藩より支弁されている。また一門の病気平癒祈願が行わるなど、当宮に対する尊崇が判る。

 幕末には、七卿を財政面で支援したほか、社務所において堀真五郎、久坂玄瑞らが密談を重ね、堀を総督とする諸隊のひとつ八幡隊が結成。屯所になり、四境戦争などに大いに活躍した。

 近代になっては明治6年に郷社に列し、大正3年に解体修理を施す。昭和29年、平成3年に屋根の葺き替えを行う。

 古くから山口地方において両社といえば当宮と仁壁神社を指し、例祭には毛利家から当主の代参がこの二社にかぎり差遣された。また正月の三社詣りはこれに八坂神社を加えたものとして、江戸期より今なお地元市民の習俗に生きている。

今八幡宮ホームページより。

今八幡宮

今八幡宮 (5)
野田神社のすぐ近くにあります。

今八幡宮 (4)
お祭りのあとですかね。

今八幡宮 (3)

今八幡宮 (2)
片づけしてますね。

今八幡宮 (1)

社務所は、神社下のバス停前にありました。

ここに参拝した後、PCXのリアボックスが外れて焦りました。マシントラブルはこわいです。

豊榮神社・野田神社

豊榮神社

山口県山口市天花丁目1-1

戦国時代に中国地方に覇を唱え後の長州藩毛利家の礎を築いた毛利元就を「毛利元就公」として祀る。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの敗戦により、同年安芸国から長門国に移封された毛利輝元が、萩江向村の春日神社境内に祖父元就の霊(元就公)を祀ったのが前身で、同12年には春日神社は萩城の三の丸に遷座されたが、宝暦12年(1762年)、長州藩主重就が萩城二の丸に鎮座していた土地神社を改造して春日神社から元就公を遷座し、毛利家の祖神とされる天穂日命[注釈 1]と合祀して神性霊社と号したのが直接的な創祀である。明和7年(1770年)には元就公を仰徳大明神と称して改めて主祭神とし、神社名も仰徳社と称した。
明治2年(1869年)、元就には正親町天皇の即位を援助するなど朝廷を崇敬する事跡があったことから、明治天皇は弁事五辻安仲を宣命使として差遣して祭神(元就公)に「豊栄」の神号を与え、山口市の多賀神社境内に仮殿を構えて仰徳社を移祠し豊榮神社と改称した。同4年、岩倉具視が勅使として差遣されて剣1口を奉納し、同年現在地に現社殿が造営されて遷座、同6年に県社に列した後、同15年(1882年)には別格官幣社に列格した。

野田神社

山口県山口市天花1丁目1-2

長州藩最後の藩主で明治維新の功労者である毛利敬親を「毛利敬親公」として祀り、敬親の養嗣子の元徳を「毛利元徳公」として配祀する。

明治6年(1873年)、有志が謀って「敬親公」を祀る社を豊榮神社の境内に建て、神社名を敬親の諡号である「忠正」から取って忠正神社と称したのに創まる。翌7年、鎮座地名からとった現在の野田神社に改称して同9年に県社に列格、同19年に現在地に遷座し、大正4年(1915年)に別格官幣社に列格した。
元徳は死の2年後の明治31年(1898年)、野田神社境内に摂社として芳宜園神社を創祀して毛利元徳公として祀られたが、昭和11年(1936年)に本殿に合祀された。

以上ウィキペディアより。

豊榮神社

野田神社

野田学園 (1)
野田学園を見つけたので記念撮影。卓球ファンにはおなじみですね。

野田学園 (2)
仙台育英、青森山田の時代が懐かしいですね。栄枯盛衰。

野田神社 (2)
野田学園の近くに野田神社はあります。

野田神社 (1)
いっぱい車ありますね。

野田神社 (3)

野田神社 (4)
手水舎

野田神社 (6)

野田神社 (7)

野田神社 (8)
三本の矢はやや折れにくい。

野田神社 (11)

野田神社 (10)

野田神社 (9)
こちらの社務所は不在でした。古熊神社で対応しているとのことです。

山口大神宮

山口大神宮

山口県山口市滝町4-4

永正17年(1520年)、大内氏30代目の大内義興が伊勢神宮の神霊を勧請して創建したものである。
永正5年(1508年)6月、大内義興は山口に逃げてきた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、以降11年間京都に滞在し、管領代として幕政を執行した。その間の永正11年(1514年)、義興は伊勢神宮に参拝し、永正15年(1518年)8月に山口へ戻ると前例のない勅許を賜った上での皇太神宮、豊受大神宮の山口への勧請をしたいと思ったという。義興は、山口に帰国してすぐに伊勢神宮を勧請するための準備を始めた。伊勢神宮を勧請するための土地を探して、現在地の高嶺東麓を社地に定め、すぐに社殿建立を開始した。永正16年(1519年)11月3日に外宮、永正17年(1520年)4月8日に内宮を造営すると、吉田神社を通じて天皇に伊勢神宮勧請の許可を求め、後柏原天皇の勅許を得、て同年6月29日神宮の御師 高向二頭大夫光定により伊勢神宮の神霊を勧請、鎮座した。当初は高嶺神明と称していたが、後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後陽成天皇から「伊勢」の御宸筆勅額が授けられ、高嶺太神宮、今伊勢と呼ばれるようになった。式年遷宮は伊勢神宮遷宮前後相論に配慮し1540年に外宮・内宮同時に行われている。
当時の伊勢神宮は幕府の神宮頭人の力が及ばなくなり、全国の荘園から届く役夫工米が滞納された事により慢性的な財政難に陥り、外宮は1434年内宮は1463年より式年遷宮が中断していた。その反面、庶民による伊勢信仰は広まり南北朝時代頃よりには飛び神明といわれる伊勢神宮の勧請が流行し各地に神明神社が創建されていた。高嶺大神宮の勧請もそうした流れを受けたものであったが、江戸時代まで、伊勢神宮より勅許を得て神霊の勧請を受けたのは日本中で当社だけであった。(江戸期に入ると伊勢商人の手によって相模国に勧請され伊勢原大神宮が創建され式年遷宮もとり行われた。新編相模国風土記稿によると伊勢原村に「當村開墾の頃勧請せし所にて、伊勢の神廟に擬し、二十一年目毎に社頭修理を加へ、遷宮の式あり」と記載されている。)江戸時代に伊勢信仰が盛んになると、山口大神宮には特に西日本各地から多くの参拝者が訪れるようになった。今も参道脇には多くの「日参一万日成就」の石碑が残る。
昭和3年、県社に列せられ、社名を高嶺神社とした。昭和22年に現在の山口大神宮に改称した。

以上ウィキペディアより。

山口大神宮

多賀神社
摂社の多賀神社の御朱印もいただけます。

ファミマ (1)
三連休の二日目。お昼寝から目覚めた後、どこかに行かないともったいない気がしてきて旅立つ。

ひとまず四国を出るため、港に向かいます。

ファミマ (2)
もう夜ですね。

松山港 (2)
真夜中の桜三里を抜け、松山港に到着。

閉まってますね。ベンチで待っている人がいます。

松山港 (1)
寒いし眠いので、どこかで時間をつぶさないと。

時間つぶし
ファミリーマートのイートインでカップヌードルを食し、しばし休憩。

松山港 (5)

窓口がようやくあいた。

松山港 (4)
すでに疲労感がありますが、仕方ない。

行きのフェリー (1)
フェリーで仮眠して、体力を回復させる。

行きのフェリー (2)
金魚

行きのフェリー (3)
気づけば夜明け

行きのフェリー (5)
目的の県が近づいてきました。

行きのフェリー (6)
さわやかな朝日。

行きの道中 (1)
上陸し、海沿いの道を走ります。

行きの道中 (2)

行きの道中 (3)
いい景色

すきや
途中すきやで栄養補給。安定の豚汁おしんこセット。

山口大神宮 (1)
なんとか山口市に入り、神社に到着。

山口大神宮 (2)
山口といえば大内氏ですね。陶氏以外に武官がいなくてこまるイメージ。

山口大神宮 (3)


山口大神宮 (4)
由緒

山口大神宮 (5)
摂社の稲荷神社

山口大神宮 (6)
苔むしてます

山口大神宮 (7)

山口大神宮 (9)

山口大神宮 (10)

山口大神宮 (11)
石段を登る

山口大神宮 (12)
手水舎

山口大神宮 (13)

山口大神宮 (14)
多賀神社

山口大神宮 (15)
太鼓をたたく

山口大神宮 (16)
石をさする

山口大神宮 (17)
本殿へ向かう

山口大神宮 (18)

山口大神宮 (19)

山口大神宮 (20)
西のお伊勢さま。すばらしいですな。