2017年01月

天手長男神社

天手長男神社

長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730

天手長男神社(あめのたながおじんじゃ[2][3][4]、あまのたながおじんじゃ[5][6][7])は、長崎県壱岐市にある神社。式内社(名神大社)論社、壱岐国一宮後継社で、旧社格は村社。

『延喜式神名帳』に載る式内名神大社で壱岐国一宮の天手長男神社に比定されているが確証は薄い(後述)。

歴史
宗像大社(福岡県)の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(玄界灘の沖ノ島)に立てたという。天手長男(と天手長比売)の社名はこの「御手長」に由来するという。

弘仁2年(811年)に「天手長雄神社」(アメノタナガヲ‐)として創建、後に「天手長男神社」。『大日本国一宮記』(『一宮記』)には、天手長男神社と天手長比売神社が物部村にあり、天手長男神社を壱岐の一宮としたとある[1]。『一宮記』では天思兼神を祭神としている[6][10]。

その後、元寇により廃れてしまい、所在も不明となっていた。

現在の天手長男神社は、江戸時代にそれまで「若宮」と呼ばれていた小祠を平戸藩の国学者、橘三喜が名神大社の天手長男神社に比定したものである。三喜は、当神社の位置する「たながお(たなかを)」という地名から天手長男神社は田中触にあるものと推定した。そして、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡1面、弥勒如来の石像2座を掘り出し、石祠を造って祀った。延宝5年(1677年)に発見された弥勒如来像には延久3年(1071年)の銘があり、後に重要文化財に指定され2012年現在は奈良国立博物館に保存されている[4][11]。元禄元年(1688年)には松浦藩主の命により社殿が作られた。

なお、三喜の式内社の査定は地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれている。天手長男神社については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府(こう)のことであると考えられ、境内社に壱岐国総社もあることから、興神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一宮であるとする説が有力となっている(橘三喜は興神社を式内小社「與神社」に比定しているが、これは興と與を見誤ったためと見られる)。

合祀されている天手長比売神社も橘三喜の査定によるものであり、本来の天手長比売神社の所在地は不明である。物部布都神社も、「田中触が物部(ものべ)村に属しているから」という理由で比定されたものであり、近年の研究では渡良浦の國津神社が本来の物部布都神社であったとされている。なお、平安時代に存在した森部郷は、江戸時代の物部村や、平成時代の田中触・渡良浦ほかを含む地域と比定されている[12]。

もっともそうした経緯はともあれ、現在では当神社が壱岐国の一宮とされ、天手長比売、物部布都の両神社の神も合祀されている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%89%8B%E9%95%B7%E7%94%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE



天手長男神社

天手長男神社 (2)
天気が悪くなってきましたが到着。今回のたびの最後の神社です。

天手長男神社 (1)
こちらの神社が最後になったのは、事前にアポ取りして時間を設定していただいたからです。

不在が多いから、事前連絡をしたというわけです。

天手長男神社 (3)
その結果無事に御朱印をいただくことができました。

天手長男神社 (4)
私以外にも数名参拝者がいました。1人は一宮朱印帳をもっていたので、私と同じ目的の人でしょう。お疲れ様です。

壱岐港のごはん
まだ時間はありますが、雨が降ってきたのでフェリー乗り場に避難。晩ごはんを早めに食べます。博多港に着いたら20時ですからね。

壱岐の帰りのフェリー (1)
どんどん暗くなってきました。雨も降ってます。

帰りの船が来ました。

壱岐の帰りのフェリー (4)
この後、博多港からひたすら土砂降りの中、別府まで走りました。別府港ついたら日付変わってました。

この季節に雨の中4時間以上バイクは危険と学びました。凍えて体が動きません。

次の日もひたすら雨で、八幡浜から6時間ほどかけて家に帰りました。

バイクから降りたら体がぶるぶる震えてまともに歩けませんでした。湯船に浸かってなんとか復活しました。

この旅が終わってから無性に温泉に入りたいのは、凍えた後遺症でしょうか。

壱岐神社

壱岐神社

長崎県壱岐市芦辺町瀬戸浦103

壱岐神社(いきじんじゃ)は、長崎県壱岐市に鎮座する神社である。

祭神
亀山天皇・後宇多天皇・少弐資時公を主祭神とする。

概要
祭神の亀山天皇、後宇多天皇は元寇の役に日本国の危き時に国家安泰を祈願した。また祭神の小弐資時公は元寇で命を捧げた。 祭神は、国難事変に際して神威を顕し、平時に於ては国家の平和を護り給う神々である。 壱岐島民は昭和3年(1928年)以来、壱岐神社御創建の事業を進め、昭和19年(1944年)本殿の建設を実現した。昭和23年(1948年)11月3日に御祭神三柱の鎭座祭を執行し、同27年(1952年)には壱岐護国神社の鎭座祭を執行した。壱岐で一番新しい神社である。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B1%E5%B2%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE



壱岐神社
書置きをいただきました。

壱岐神社 (1)
岬の端っこみたいなところに鳥居が見えたので到着。

てか、手前に大きなイオンがあったことにおどろいた。イオンって壱岐にまで出店してるんか。

壱岐神社 (2)
護国神社も兼ねてるんですね。

壱岐神社 (3)
中原喜三郎さんの像。

壱岐神社 (4)

壱岐神社 (5)
小弐資時さんの名前がありますね。19歳で戦死されたそうです。それで祀られているんですね。

壱岐神社 (6)
護国神社を兼ねている理由がなんとなくわかるような気がしました。

国片主神社

国片主神社

長崎県壱岐市芦辺町国分本村触1369

国片主神社 (2)
書置きをいただきました。

国片主神社 (1)
聖母宮で教えてもらった神社に来ました。

国片主神社 (2)

国片主神社 (3)

国片主神社 (6)
まわしてみました。

国片主神社 (7)
なでてみました。

国片主神社 (4)

国片主神社 (5)
次は港のほうに戻ります。

聖母宮

聖母宮

長崎県壱岐市勝本町勝本浦554

聖母宮(しょうもぐう)は、長崎県壱岐市勝本町勝本浦に鎮座する神社。『延喜式神名帳』に載せる壱岐島壱岐郡の名神大社、「中津神社」の有力論社であるが、現在その社名の別神社(中津神社)が存在している。

仲哀天皇9年(200年?)10月、神功皇后が三韓征伐の折、壱岐で風待ちをした時に行宮を建てたのが起源とされる。この時神功皇后は北へ向かうのに良い風が吹いたことから、この地を風本(かざもと)と名付けた。同年12月三韓から凱旋時に勝利を記念して、風本を勝本に改めた。その時に敵の首101500をこの地に埋めたという伝承が残る。その後行宮は放置されたが、海より光るものが上がってくる事件が起き、その際に鏡を奉納し神功皇后を祀ったとされる。

養老元年(717年)、国家鎮護が祈願されて社殿が建てられる。聖母宮ではこれをもって神社の創建としている。古来より国主の崇敬厚く壱岐七社の一つとして、また壱岐国二の宮とされた。古来より福岡市の香椎宮との繋がりが深く、香椎宮(香椎大明神)を名乗っていた時期もあり、さらに地元が香椎村を名乗っていた時期もあった。しかし当社が香椎宮の分社というわけではない。

『本朝神社考』では式内小社、手長比売神社に比定された。延宝4年の橘三喜の査定では、当社と勝本町北触の中津宮(現中津神社)を式内大社、中津神社に比定したが(手長比売神社は勝本町本宮西触の手長比賣神社に比定)、中津宮が中津神社に改称され、こちらが式内中津神社とみなされるようになった。社伝では、「過ちありて式内社の資格を失った」としている。しかし、現在の中津神社を式内中津神社とすることには否定的な意見が多く、『式内社調査報告』では聖母宮が式内中津神社であり、現在の中津神社はその分祀であろうと記している。

なお、所在地が長崎県で、神社名に「聖母」とあることからキリスト教と関係があると誤解を受けることがあるが無関係である。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E5%AE%AE



聖母宮

対馬 (1)
対馬を朝早くの船で出ます。さよなら対馬。フェリーがすでに待っております。

壱岐の昼ごはん (1)
壱岐に上陸。壱岐の滞在時間は長めなので散策する時間もあります。まずはごはんを食べよう。

壱岐の昼ごはん (2)
福本漫画を読んで休憩。

壱岐の昼ごはん (3)
壱岐牛の定食を食べます。今回の旅は駆け足なので、地元の食べ物を食べるのが少ないので貴重な時間です。

聖母宮 (2)
まずは北方に進み、聖母宮へ。壱岐はそんなに広くないのですぐつきました。

聖母宮 (1)

聖母宮 (3)

聖母宮 (4)
手水舎がシャコガイ・・・!

聖母宮 (5)

聖母宮 (6)
社務所の女性の方が本殿の中も見せてくれるとおっしゃられたので、あがらせてもらうことに。

聖母宮 (8)

聖母宮 (7)
中の写真を撮らせていただくのは珍しいですね。ありがとうございました。

御朱印をお書きいただく間、しばし雑談。社務所の女性、御朱印をもらっている人の気持ちを知るために自分ももらい始めたとおっしゃっていました。おもしろい発想だとおもいました。

壱岐の神社の情報も教えていただきました。この旅の間、あまり人と話す機会がなかったので話ができて元気になりました。お世話になりました。

海神神社

海神神社

長崎県対馬市峰町木坂247

海神神社(かいじんじんじゃ)は、長崎県対馬市峰町木坂にある神社。式内社(名神大社)論社、対馬国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

式内名神大社の「和多都美神社」、同「和多都美御子神社」、式内国幣小社の「胡禄神社」、同「胡禄御子神社」の論社である(いずれも複数の論社がある)。

社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来するという。旗は後に現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もある。

中世以降は、八幡本宮とも、下県郡の下津八幡宮(現 厳原八幡宮)に対して上津八幡宮とも称された。

明治3年(1870年)、『延喜式神名帳』に見える和多都美神社に改称した。翌明治4年5月、国幣中社に列格する際に、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、同年6月に現在の海神神社に改称した。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE



海神神社
書置きをいただきました。社務所に電話番号が書いてあります。

博多ポートタワー
フェリーに乗り遅れたらと不安でしたが、ばっちり起床して博多港につきました。

九州郵船時刻表
船まで時間があるので耐えしのぎます。便数少ないですね。

フェリー (1)
ダービー馬みたいな名前の船に乗り込みます。

フェリー (2)
4時間ほどかかるので寝続けます。ついたら14時45分。ほぼ移動に費やしますね。

・・・船がめっちゃゆれます。

ドオオン!!って何かがぶつかるような音が響きます。

めっちゃ酔います。気持ち悪いです。

これだけ海が荒れたら元寇も失敗するわ。

対馬上陸
吐き気にさいなまれつつ上陸。

対馬 (2)
港町ってか漁港って感じですね。

対馬地図
地図で見ると、対馬って縦に長いんですよね。上陸した厳原港が南のほうなので、目的の海神神社までは結構距離あります。

これをよく確認せずに向かったことで、めっちゃ道に迷いました。地図の確認は大事。

山猫
ツシマヤマネコには出くわしませんでした。残念。

海神神社 (2)
なんやかんや道を間違えて引き返したりしつつ到着。

海神神社 (1)

海神神社 (3)

海神神社 (4)
まあまあ急峻な石段が見えますね・・・

海神神社 (5)

海神神社 (6)
しんどい

海神神社 (7)

海神神社 (8)

海神神社 (9)
しかし無事に参拝できてよかった。ここまで無事にこれたことを神に感謝する。そして帰りの安全も祈願する。

千両
ホテルの主人から飲食店の場所を教えてもらったので、食事に向かう。

千両の食事 (1)
せっかく島にきてるし魚を食べよう。

千両の食事 (3)
焼き魚も食べよう。

千両の食事 (2)
ろくべえ汁という郷土料理を食す。美味い。

対馬の焼き鳥 (1)
まだ時間が早いのではしごします。焼き鳥食べます。

対馬の焼き鳥 (2)
トラキチの店でした。

対馬の焼き鳥 (3)
もう酒が飲めないのでウーロン茶飲みます。

対馬は国境の島のためか、韓国人観光客が多いですね。フェリーでこれるから便利なんでしょうか。

明日も早いので早めに就寝。対馬の夜は孤独。

住吉神社

住吉神社

福岡県福岡市博多区住吉3丁目1−51

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、福岡県福岡市博多区住吉にある神社。式内社(名神大社)、筑前国一宮。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。

全国2千数百社ある住吉神社の始祖であり、大阪の住吉大社・下関の住吉神社とともに「三大住吉」の1つに数えられる。

福岡市中心部、かつて比恵川と那珂川の河口、冷泉津に突き出る形で鎮座しており、航海守護神の住吉三神を祀る神社である。全国には住吉神社が2,000社以上分布し、一般には大阪の住吉大社がその本社とされるが、同社の『住吉大社神代記』には住吉三神は筑紫大神と記されているため、当社が全ての住吉神社の始祖である。古代には他の住吉神社とともにヤマト王権の国家的航海神として崇敬され、中世からは筑前国の一宮に位置づけられたほか、領主・一般民衆からも海にまつわる神として信仰された古社になる。

現在の本殿は江戸時代前期の黒田長政による造営で、その建築様式は「住吉造(すみよしづくり)」と称される古代日本の独特なもので、国の重要文化財に指定されている。他に文化財としては境内から出土したという弥生時代の銅戈・銅鉾などを伝世し、祭事としては例祭の「相撲会大祭」など祭神の由緒にまつわる各種神事を現在に伝えている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82)



住吉神社

住吉神社 (2)
住吉神社、結構街中にありますね。

久しぶりに三車線の道を走ったのでこわかったです。

住吉神社 (1)

住吉神社 (3)

住吉神社 (4)

住吉神社 (5)

住吉神社 (6)
行列ですね。

住吉神社 (7)
参拝後、対馬行きのフェリーを予約しようとしましたが、二輪は予約できないんですね。

まあ、混んでないか。この寒いのにバイクで行くやつおらんやろし。

中州
無事ホテルも取れたので中州で遊ぶことに。

中州すばらしいわ・・・福岡に住みたいわ。

博多の晩御飯 (5)
晩御飯は博多のお姉さんに教えてもらった独りもつ鍋の店に。

孤独な人間にやさしいですね。

博多の晩御飯 (3)
カウンター席のみの店内。独りにやさしい。

博多の晩御飯 (1)
青森から来てる人がいました。青森から九州は遠いよなあ。なかなかこれないわ。

博多の晩御飯 (2)
青森は一度行きましたけど、再訪はいつになるのか。関西からはなかなか行けないですね。

神社巡りを始めてから、いろんな場所に行きましたけど、もう二度と行かない場所もあるんだろうなあ。としみじみ感じました。

筥崎宮

筥崎宮

福岡県福岡市東区箱崎1丁目1−22−1

筥崎宮(はこざきぐう)は福岡県福岡市東区箱崎に在る神社。式内社(名神大社)、筑前国一宮[1]。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。大分県宇佐市の宇佐神宮・京都府八幡市の石清水八幡宮と筥崎八幡宮を三大八幡宮と呼ぶ[2]。

創建に関しては複数の説がある[3][4]が、公式サイトでは延喜21年に建立された説が紹介されている[3]。延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神として筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる[3]。延長元年(923年)に現在地に遷座[3]。『延喜式神名帳』には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。

元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた[3]。以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている。

近代社格制度のもと明治4年(1871年)に県社に列格した。明治18年(1885年)に官幣中社に、大正3年(1914年)に官幣大社に昇格した[3]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%A5%E5%B4%8E%E5%AE%AE



箱崎宮

博多ラーメン
来ました博多。一度来たことあるけどあんまり覚えてない。ひとまずラーメン食べるぜ。

箱崎宮 (1)
筑前一ノ宮は博多区にあるので、都会ですね。アクセス良好。

箱崎宮 (2)
こちらの神社は大変混雑しております。流石博多。人も多い。

箱崎宮 (3)
ぞろぞろと参拝します。

箱崎宮 (5)
かっこいい文字が。流石外敵との距離が近い博多ならではですね。

高良大社

高良大社

福岡県久留米市御井町1

高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)、筑後国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

古くは高良玉垂命神社(こうらたまたれのみことじんじゃ)、高良玉垂宮(こうらたまたれのみや)などとも呼ばれた。

久留米市中心部の東方に鎮座する。

古代から筑紫の国魂と仰がれ、筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に篤い信仰圏が見られる。厄年の厄ばらい・厄除け開運・延命長寿・現代では交通安全のご利益でも名高い。また芸能の神としての信仰もある。

高良大社自体が名神大社、筑後国一宮であるほか、本殿に合祀されている豊比咩神社が名神大社、境外末社の伊勢天照御祖神社が式内小社、味水御井神社が筑後国総社であるとされる。

社殿は国の重要文化財に指定されており、神社建築としては九州最大級の大きさである。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%89%AF%E5%A4%A7%E7%A4%BE



高良大社


高良大社 (1)
結構都会な久留米の街を突き進むと高良山に到着しました。

高良大社 (3)


高良大社 (4)
木製の鳥。なでます。

高良大社 (2)
参拝客多いですね。駐車場もいっぱい。

次は博多へと向かいます。

水天宮

水天宮

福岡県久留米市瀬下町265

水天宮(すいてんぐう)は、福岡県久留米市にある神社である。全国にある水天宮の総本宮。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。

天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)を祀る。

社伝によれば、寿永4年(1185年)、高倉平中宮に仕え壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使局伊勢が千歳川(現 筑後川)のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て、建久年間(1190年 - 1199年)に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる[1]。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前大明神、尼御前神社、尼御前宮などと呼ばれた。そのころ、中納言平知盛の次男平知時の子右忠が肥後国から千代を訪れ、その後嗣とした。これが現在まで続く社家・真木家の祖先である。幕末の志士・真木保臣は第22代宮司であり、境内社・真木神社に祀られている。

慶長年間に久留米市新町に遷り、慶安3年(1650年)、久留米藩第2代藩主有馬忠頼によって現在地に社殿が整えられ遷座したのが現在総本宮である久留米水天宮である[1]。 その後も歴代藩主により崇敬されたが、特に第9代藩主頼徳は、文政元年(1818年)に久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請し、その後明治5年に現在の東京水天宮にご遷座された[1]。 明治元年(1868年)には元神明宮に分霊され相殿に祀られる。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%A4%A9%E5%AE%AE_(%E4%B9%85%E7%95%99%E7%B1%B3%E5%B8%82)



水天宮

水天宮朱印帳
御朱印帳もいただきました。

水天宮 (1)
せっかく久留米市まできたので、水天宮に参拝です。

安産祈願しとくか・・・

水天宮 (2)

水天宮 (3)
参拝中に職場から着信があってテンションが下がる。

今久留米市だから仕事にはもどれませんよ。

千栗八幡宮

千栗八幡宮

佐賀県三養基郡みやき町大字白壁千栗2403

千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)は、佐賀県三養基郡みやき町にある神社。肥前国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。

『鎮西要略』によれば、神亀元年(724年)、当時の肥前国養父郡司・壬生春成が八幡神の神託を受けて千根(ちこん)の栗が生えている地に社を建てて八幡神を祀ったとされる。

『太宰管内志』に引用された『外部局日記』によれば、長保元年(999年)、八幡大菩薩千栗宮から油が湧出し、朝廷に献上された。

承平年間(931年 - 938年)に宇佐八幡宮の別宮となったとみられ、以後その五所別宮の一として崇敬を受けた[1]。

南北朝時代には当宮の西に千栗城が築かれ、戦国時代には神域も度々戦乱に巻き込まれ幾度か社殿も焼失したが、後に領主龍造寺氏、鍋島氏によって社殿の再興、社領の寄進が行われた。

平安時代後期より肥前国一宮を称してきたが、近世になって式内社・河上神社(現 與止日女神社)との間で一宮の称が争われた。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%A0%97%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE



千栗八幡宮

千栗八幡宮 (2)
筑後川沿いにひた走ると発見。久留米市との境目あたりになるんですね。

千栗八幡宮 (1)

千栗八幡宮 (3)

千栗八幡宮 (4)
次は久留米市に向かいます。