2016年03月
狭井神社
大神神社
奈良県桜井市三輪1422
大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧来は美和乃御諸宮、大神大物主神社と呼ばれた[1]。中世以降は三輪明神と呼ばれる。明治時代になり「大神神社」と改名された。
三輪山を神体山とする。
大神神社は纒向・磐余一帯に勢力を持った出雲ノ神の一族が崇敬し、磐座祭祀が営まれたとされる日本でも古い神社の一つで、神奈備信仰様式をとった神聖な信仰の場であったと考えられる[2]。大穴持命が国譲りの時に、己の和魂を八咫鏡に取り付けて、倭ノ大物主櫛甕玉命と名を称えて大御和の神奈備に鎮座した。これが三輪神社の創始である。(『出雲国造神賀詞』)[3]
全国各地に大神神社・神神社(三輪神社、美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。
祭祀
大神神社は三輪山(三諸山)を神体山として直接、拝するようになっているため本殿をもたず、山中には上から奥津磐座(おきついわくら)・中津磐座(なかついわくら)・辺津磐座(へついわくら)の3つの磐座がある。大神神社は拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。
寛文4年(1664年)、4代将軍徳川家綱によって再建された拝殿(国の重要文化財)は棟札によると高宮範房神主の代のときに金屋の茂左衛門と手代福本又次郎を番匠棟梁とし造営されたもので、それ以前は三ツ鳥居とそれに続く瑞垣が巡るに過ぎなかった。拝殿奥にある重要文化財に指定された三ツ鳥居(三輪鳥居)は営造物の中において中枢の地位を占め、明神鳥居の形式の両脇に、脇鳥居が接続し、本柱の他、脇柱が2本、合計4本の柱があり、特異な形式のものである[4]。
三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、麓の山ノ神祭祀遺跡などからは、古墳時代中期以降の布留式土器や須恵器・子持勾玉・茶臼玉(竹玉)など古墳時代から奈良時代のものが出土した。
三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE


大神神社に来ました。正月には激混みであきらめましたが、今日は無事これました。








三輪明神さま、立派ですわ。
こちらでは、摂社でも御朱印をいただけるので、向かいましょう。
恵比須神社
宇太水分神社
奈良県宇陀市菟田野古市場241
宇太水分神社(うだのみくまりじんじゃ)は、奈良県宇陀市菟田野古市場にある神社。式内社(式内大社)で、旧社格は県社。
大和の東西南北に祀られた四水分神社のうち東に当たるのが当社とされる(他の3つは都祁水分神社、葛木水分神社、吉野水分神社)。宇陀地域には他に2つの水分神社があり、宇陀市榛原下井足(はいばらしもいだに)の宇太水分神社を「下社」、同市菟田野上芳野(うたのかみほうの)の惣社水分神社を「上社」、本項で解説する同市菟田野古市場の神社を「中社」とも称する[1]。古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、2003年の社殿の塗り替えの時にわずかに残された色彩が発見されそれを元に復元された。
概史
社伝によると、崇神天皇7年の創建とされる。延喜式では大社に列格し、月次祭・新嘗祭の案上の官幣に預かるとし、臨時祭祈雨神祭八十五座の一座に列せられた。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%AA%E6%B0%B4%E5%88%86%E7%A5%9E%E7%A4%BE


三重からの帰路、大きな鳥居を見つけたので立ち寄ります。




頼朝が植えた杉だそうな。



間違えて空の写真を撮影。雨が降ってこないよう祈る。
磯部神社
神明神社(石神さん)
三重県鳥羽市相差町1237


旅館を後にする。今日の天気予報は微妙やから、降られないか心配。
今日の目的地は石神さんです。どうやら女性の願いをひとつだけかなえてくれるとのことで人気とのこと。
どんなものなのか確かめにいってきます。

パールロードを走りぬけ、展望台で休憩。鳥羽一郎の兄弟船。

曇天やな。

曇天。車はちらほら。

ちょっと休みましょうか。

カキフライ丼と悩んだ結果、とばーがーを注文。
なかなかいけますね。

ひた走って標識に従って進むと、相差に着きます。おうさつって読めない。
この細い道をあがっていきます。道沿いには、雰囲気のいいお店が並んでおります。観光地って感じでいいですね。


願いがかなうご利益コース。直球。

神明神社の名前よりも、石神さんのほうが広まってますね。





そしてこちらがうわさの石神さんですね。

小さい社ですが、かなりの参拝者です。


絵馬には、願いがかないましたとの感謝の文字が。
すごいわ石神さん。




健康になるとの楠。心をこめてさわる。

本殿。石神さんに押されていますが、こちらも立派です。

やっぱ女性パワーすごいわ。
郵送での願掛けもしている様子。すごいわ石神さん。
伊射波神社
三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1210

書置きをいただいたんですが、サイズが大きい。一宮朱印帳からはみ出る。

伊雑宮参拝後、安楽島の伊射波神社へ向かう。
こちらの神社は、宮司さんが常駐していないと聞いたので電話するも、つながらない。
一抹の不安を抱きながらも、ひとまず向かう。
地図を見てもいまいち道がわからず、安楽島旅館街に間違って入り、時間をロスするも、標識を見つけて向かう。

こんな感じで表示があります。

なんか不安になる細い道。

途中に近くの旅館の駐車場があるんですが、犬みたいな動物が。
狸やんけ!!

道中に旗や表示があるので、道は間違っていないとわかるんですが、それにしても道が細い。

車で入るのはためらわれますね。

これ以上は進めないので、駐車します。

杖が備え付けられてます。いやな予感がする。
ここで唐突に黄色いジャージのおじさんに話しかけられる。
「兄ちゃん、どこからきたん?」
「徳島からです」
どうやら、散歩に来た地元のおじさんの模様。せっかくなので一緒に神社へ向かいます。

急な階段を下ります。

海に出ました。

そして鳥居があります。


そして険しい石段。
おじさんが話しかけてきます。
「今日はどこかで泊まるんかい?」
「そのつもりですが、まだ決めてません」
「そうか。この辺で旅館にでも泊まって、休んでから明日また走ればええ。疲れとるだろうしな。」
おじさんは安楽島の話をいろいろしてくれました。この神社にも最近女性二人組が参拝に来て、安楽島の旅館に泊まったとのこと。
「鳥羽のビジネスホテルでもいいけど、このあたりの旅館でもいいんでないかな」
旅館にひとりで泊まったことがないので、少し興味がわいた。


見えてきましたね。


険しい道をあるいて疲れるわ・・・。ダウンジャケット着てるから暑い。

おじさんについていき、もう少し進みます。

航海安全を祈る社が。近くにはナギの木が植えられています。
「ナギの木、ここにも植えてあったんかなあ?あとから植えたんかな」
ナギは、凪に通じるので、ゲン担ぎで植えたのでしょう。

正月はここから初日の出が見えるそうな。
なんやかんや話した後、おじさんと別れる。ありがとうおじさん。

宮司さんの家で書置きの御朱印をいただいて、今夜の宿をどうしようかなと考えながら伊勢方面に向かっておりましたが、やっぱり引き返しておじさんの勧めていた旅館に泊まることに。
たまにはビジホじゃなくて旅館というのも悪くないかなあと思ったのと、おじさんがせっかく場所まで説明してくれたのにむげにするのも申し訳ないような感じがしたもので。

睡眠不足のせいか、少し眠ってしまっていた。晩メシを探しに鳥羽の街へ繰り出します。

車の走ってない道路は雰囲気が異なりますね。

中心地のほうへ歩いてみます。

お店がありました。ここにしよう。

疲れた体にビールが美味い。

うに塩辛。

カキフライ。

白子ポン酢。

松阪牛タタキ。美味し。
旅先の居酒屋のメシは美味いですわ。満足。
伊雑宮
三重県志摩市 磯部町上之郷374
伊雑宮(いざわのみや、正式名:伊雜宮)は、三重県志摩市磯部町上之郷にある神社。式内社(大社)論社で、志摩国一宮。
皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町の瀧原宮とともに、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。2013年(平成25年)の年間参拝者数は93,267人[1]。
概要
伊雑宮は内宮(皇大神宮)別宮で、内宮背後の島路山を越えた志摩市磯部町上之郷にある。伊勢神宮別宮14社のうち伊勢国外のものは伊雑宮(志摩国)のみ。また神田を持つ唯一の別宮である。
当宮は、10社ある内宮別宮の中で荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ順位とされる。
一般に、伊雑宮を志摩国一宮とする。しかし、志摩国一宮は鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)とする異論もある。
明治以降、式年遷宮のためのお木曳行事が伊勢神宮に準じ20年に一度行われる。正宮では1年次と2年次の2回であるのに対し、瀧原宮と伊雑宮の別宮2社では1年次のみである。第62回神宮式年遷宮の伊雑宮御木曳は2006年(平成18年)4月16日に催された[2]。第61回までは志摩市の磯部地域内のみだったが、合併による志摩市誕生により、この第62回では同市中心部の阿児地域内でも初めて曳かれることとなった[2]。お白石持は2014年(平成26年)11月22日に、遷御は同年11月28日午後8時にそれぞれ執行された[3]。
他の境外別宮と同様、神職が参拝時間内に常駐する宿衛屋(しゅくえいや)があり、お札・お守りの授与や、神楽や御饌の取次ぎを行なう。
鳥居前町には鰻料理店・中六や神武参剣道場、伊雑宮のおもてなし処・御師の家などがある。
歴史
鎌倉時代成立とみられる『倭姫命世記』によると、伊勢神宮の内宮を建立した倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)を探して志摩国を訪れた際、伊佐波登美命が出迎えた当地を御贄地に選定して伊雑宮を建立したとされる。神宮ではこの説を採るが、一般には『倭姫命世記』が史書とされないこと、また該当箇所は伊雑宮神官が後世に加筆したとされることから、創建は不詳とすべきである。また、近世以前の志摩国では、伊雑宮周辺の土地のみが水田による稲作に適したことから当社が成立したとする説や、志摩国土着の海洋信仰によるとする説などあるが、定説ではない。
804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』及び927年(延長5年)の『延喜太神宮式』に、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と記載があるため、それ以前から存在したとわかる。
平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、伊勢平氏の地盤だった伊勢国への源氏勢の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備した。養和元年(1181年)1月、伊雑宮は源氏の味方となった紀伊の熊野三山の攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われてしまう。熊野三山の勢力はさらに山を越えて伊勢国に攻め込むが、反撃を受け退却した。1159年の平治の乱では平家に味方した熊野三山が、治承・寿永の乱では源氏に味方した理由として、当時の熊野三山と対立した伊勢神宮を平家が優先したためとされるが、この事件により、神職が権力者の庇護を得るために歴史の捏造を行ったとする説がある。
江戸時代には伊雑宮の神職が中心となり伊雑宮を本来の内宮とする偽書を作成し、先代旧事本紀大成経事件の舞台となる。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%9B%91%E5%AE%AE


志摩国一宮の伊雑宮に来ました。

こちらの神社は参拝客は数組で、静かですね。
内宮が多すぎるんですけどね。





最近この形の本殿をよく見る気がしますね。伊勢系ってことでしょうか。
猿田彦神社
三重県伊勢市宇治浦田2−1−10
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は、三重県伊勢市の伊勢神宮内宮の近くにある神社である。猿田彦大神と、その子孫の大田命を祭神とする。旧社格は無格社(社格がないという意味ではなく「無格社」という社格)で、第二次世界大戦後は別表神社となった。
概要
日本神話によれば、猿田彦神はニニギの天降りの先導を終えた後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まった。『倭姫命世記』によれば、その子孫の大田命は天照大神を祀る地として倭姫命に五十鈴川川上の地を献上した。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、神宮に玉串大内人として代々奉職したが、その宇治土公が邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦を祀っていた。明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社である。
猿田彦神がニニギの先導をしたということから、みちひらき[1]・交通安全・方位除けの神社として信仰されている。
本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造である。欄干や鳥居には八角形の柱が使用されている。5月5日の御田祭は、三重県の無形民俗文化財に指定されており、神饌として飛魚を献上する風習がある。
境内には、天降りの際に猿田彦神と応対した天宇受売命を祀る佐瑠女神社(さるめじんじゃ)が猿田彦神社の本殿に向かい合うように建っており、芸能の神として信仰されている。
玉串大内人(たまぐしおおうちんど)という職は、式年遷宮で、心御柱と御船代(みふなしろ)を造り奉るなど重要な役割をはたしてきたことから、建築の神、みちひらきの神とされる[2]。それゆえ神棚において、猿田彦大神の御札は、道を切り開く意味を持ってお祀りする御札となるため、天照皇大神宮の御札より手前(少しずらして先導役をする)に祀る習わしになっている[2]。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E7%94%B0%E5%BD%A6%E7%A5%9E%E7%A4%BE


佐留女神社の御朱印もいただけます。

内宮近くの猿田彦神社に参拝します。
こちらは普通に駐車できますね。


JALっぽい。

摂社のさるめ神社。






内宮近辺はこれで終了し、一宮巡りに向かいます。