2016年01月
石津太神社
大阪府堺市西区浜寺石津町中4丁12-7
石津太神社(いわつたじんじゃ)は、大阪府堺市西区にある神社である。旧社格は村社。
同市堺区石津町の石津神社(いしづじんじゃ)とともに、式内小社「和泉国大鳥郡 石津太神社」の論社であり、どちらも「日本最古の戎社」を称している。
この地は元は浜辺であり、伝承では、伊奘諾命・伊奘册命によって流された蛭子命がこの地に漂着し、携えてきた五色の神石を置いたという。蛭子命が漂着した場所を「石津の磐山」、「五色の石」を置いた場所を「石津」という。鳥居の前の交差点に「五色の石」を地下に埋めたとされる場所があり、その場所を示す地上部分に石が置かれている。
孝昭天皇7年8月10日、勅命により蛭子命を祀る社殿を造営し、八重事代主命・天穂日命を合祀した。平安朝以後、朝廷の崇敬を受け、幾度の御幸の記録もある。かつては広大な社領を有していたが、元和年間以後、数度の兵火により社殿を焼失した。豊臣秀吉が大阪城を築城した際、裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金を寄進した。明和5年、神札頒布について係争していた西宮神社(西宮戎)と和解した。全国に崇敬者があり、明和6年には江戸湯島天神、坐摩神社で出開帳をしている。
石津川北岸の大阪湾手前の河口には、葦舟に乗った蛭子命(戎大神)が漂着したと伝えられる場所があり、現在は御旅所として祀られている。
明治5年(1872年)に村社に列格した。明治41年、近隣の諏訪神社を合祀した。
鳥居の前には紀州街道が南北に走っている。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B4%A5%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE


今回の旅最後の神社は石津太神社です。

工事中かな。



十日えびすなのでにぎわってますね。

徳島に帰って天下一品食べてフィニッシュ。
奈良には無鉄砲というこってりラーメンがあるそうで、その情報を聞いてラーメンが食べたくなり天一に来てしまった。次は奈良ツアー(無鉄砲)かな。
大阪の道は車が多くてしんどいので、奈良のほうが快適なツーリングができるかもしれないですね。
宿院頓宮
大阪府堺市堺区宿院町東2丁1-6
宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)は、大阪府堺市堺区にある頓宮・神社である。
住吉大社の御旅所として設置され(年代不詳)、住吉の「宿居」から転じて「宿院」と呼ばれるようになったと言われる。古くから夏の大祓日に住吉大社から神輿を迎え、境内西側にある飯匙堀で「荒和大祓神事」が行われてきた。
明治以降は大鳥大社からも神輿の渡御が行われるようになり、国境の町「堺」を象徴する、摂津国和泉国両一宮の頓宮となった。現在は、7月31日に大鳥大社から、8月1日に住吉大社から神輿の渡御が行われている。
神社としては、大正期に境内へ遷座された「波除住吉神社」と「大鳥井瀬神社」の2社がある。堺大空襲による焼失以前は2社殿が並んでいたが、以降は一社殿にて合わせ祀られている。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E9%99%A2%E9%A0%93%E5%AE%AE


次は宿隠頓宮を参拝します。フェニックス通りというかっこいい道路に面してます。

でっかい鳥居。


おぶじぇー。

フェレットかな?


そろそろ帰路に着き始めます。
開口神社
大阪府堺市堺区甲斐町東2丁1-29
開口神社(あぐちじんじゃ)は、堺市堺区にある神社である。通称「大寺」(おおてら)。地元では「大寺さん」とよばれ親しまれている。堺南組(大小路以南)の氏神社。式内社で、旧社格は府社。
社伝には、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝える。
また延喜式神名帳に和泉国大鳥郡24座のうちの一社として記載されていて、この延喜式神名帳では「開口」を「アキクチ」と読ませている。この「アキクチ」が訛って「アグチ」となって現在に至る。摂津の住吉神社と古くから関係が深く、731年(天平3年)の記録では「開口水門姫(あきぐちみなとひめ)神社」と書かれている。
932年(承平2年)には神階が正五位上まで昇った。古代から中世にかけて、当社付近は開口村と呼ばれていた。1113年(天永4年)、原村の素盞嗚命、木戸村の生国魂命を合祀し、「開口三村大明神」と呼ばれ、崇敬されるようになった。
12世紀に境内に念仏寺が創建され、両者とも津守氏の支配下にあったが、堺が商業港として発展し、商人勢力が台頭してくると、商人たちの自治に支えられるようになった。南北朝内乱時代の1389年(康応元年)に豪商野遠屋周阿弥が田地を寄付して以来、田地の寄進が相次いだ。
1535年(天文4年)には念仏寺の築地修理料として堺南荘の豪商110余名が一人当て一貫文ずつの銭を寄進しているが、このなかには茶人の武野紹鴎、千利休(「せん与四郎」名義)、奈良春日神社の石灯籠にも名を残す魚屋弥次郎といった有名人の名も記されている。これら豪商から選ばれた10数人が納屋衆、会合衆となって堺の自治組織の運営に当たり、開口神社の祭礼で重職を勤めたのである。
1873年(明治6年)に郷社に列し、1902年(明治35年)に府社に昇格した。1945年(昭和20年)7月10日未明の堺大空襲により本殿と1663年に建築された三重塔を含め悉く焼失したが、貴重な記録類は被害を免れた。現在の社殿は1961年(昭和36年)の再建である。南側には宿院があり、住吉大祭の神輿の旅所となっている。
通称の「大寺」はかつて存在した神宮寺の念仏寺(真言宗)に由来し、古く「日本の神々は仏の姿を変えたものである」との思想に依っている。念仏寺の開山は744年(天平16年)で行基による。山号は密乗山。平安期には空海や空也とゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈したことから、大寺の通称が定着するに至った。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%8F%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE


神明神社から東にまっすぐ進むと、開口神社の裏手に出ました。

大寺さんっていう同級生の女子がいて、かわいかった気がするけど、クラスはいっしょになったことないのでよくわからない。
ガタイのいい大寺さんって呼ばれてた気がするけど、かわいかったと思います。

幼稚園の碑。




表に回りましょう。



神明神社
大阪府堺市堺区栄橋町2丁目1-22
神明神社(しんめいじんじゃ)は、大阪府堺市堺区にある神社。
歴史
大和川の流れが変更され江戸時代は堺港はその土砂の堆積に悩まされ修築と浚渫の歴史を繰り返した。
天保年間堺港付近の海・河川の浚渫、架橋工事によって港が整備された。
文政4年佐々木長門が宇迦之御魂神(稲荷)、住𠮷大神、金山彦大神を祀り旭神社とした。
その後新たに堺奉行水野若狭守の命により天照大御神、豊受大御神を主祭神として宇迦之御魂神、住𠮷大神、金山彦大神を摂社として旭神社改め神明神社とした。[1]
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A0%BA%E5%B8%82)

朝の5時代に火災報知機が鳴ってびっくりして飛び起きました。
「1階で火災が発生しました。避難してください。エレベーターは使用しないでください。」
慌てて逃げようとしましたが、誤報でした。安心して二度寝しました。堺で焼死とかシャレにならんですからね。

ホテルを出発し、堺市の神社を巡ることに。駅前の神明神社に来ました。

ここは駅の真裏なのでアクセスいいですね。



堺って海のにおいがしますね。ちょっと意外でした。
感想:火事はこわい。
泉穴師神社
大阪府泉大津市豊中町1-1-1
泉穴師神社(いずみあなしじんじゃ)は、大阪府泉大津市豊中町にある神社。『延喜式神名帳』に掲載されている和泉国和泉郡泉穴師神社に比定されている。和泉五社の一つで和泉国二宮。
社伝によると、当社は白鳳年間に創建されたとするが、神功皇后の時代に創建されたとも神武東征の際に始まるとも言われ定かではない。天平10年(738年)の和泉監正税帳(『正倉院文書』)によると、聖武天皇から社領を賜ったという。『日本三代実録』によると貞観7年(865年)に正五位下を授けられたとし、『類聚国史』によると貞観10年(868年)に従四位下を授けられたとする。元弘元年(1331年)には、楠木正成が当社に石燈籠を奉納している。天正3年(1575年)には織田信長より社領安堵の朱印状を与えられ、慶長7年(1602年)には豊臣秀頼によって社殿が再建された。明治6年(1873年)に郷社に列格し、明治27年には府社に昇格した。昭和21年(1946年)、それまで毎年2月4日に行っていた春季大祭を4月5日に行うこととし現在に至る。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E7%A9%B4%E5%B8%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE


加太から大阪へと入り、信太山方面へ。泉大津で神社に立ち寄ります。




十日えびすですね。


この神社の近くに信太山新地という遊郭跡があるんですけど、遊郭で働く人ってどんな感じなんですかね。
お父さんが借金を残して蒸発して、病弱な母も倒れて、借金が返せなくなって途方にくれたところに黒ずくめの男から「いっぱい稼げて借金もすぐ返せるしごとがあるよ」とか言われて売り飛ばされたりするんですかね。

きゃわわわわわわわわ!!!!!!

取り乱しました。宮崎あおいみたいな娘が遊郭に売られてたら身請けしますわ。
堺市まで行き、スーパーホテルにチェックイン。飲み屋街の翁橋町を歩いてみる。市役所の裏手ですね。

初心者がいきなり入れる雰囲気ではないので退散。

結局宿の近くの居酒屋にきました。

にゃろめ。


とり肝刺し美味。飲みすぎました。
感想:宮崎あおい身請けしたい。
淡嶋神社
和歌山県和歌山市加太116
淡嶋神社(あわしまじんじゃ)は、和歌山県和歌山市加太にある神社。式内社論社で、旧社格は郷社。
全国にある淡島神社・粟島神社・淡路神社の総本社である。人形供養で知られ、境内一円に全国から奉納された2万体にも及ぶ無数の人形が並んでいる。
歴史
淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるが、当神社はその総本社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇る。
神話において日本を創造したと伝えられる少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)の祠が加太の沖合いの友ヶ島のうちの神島(淡島)に祀られたことが始まりとされる。社伝によれば、三韓出兵の帰途瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納した。その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡嶋神社の起こりとされる。
淡島神は住吉神の妃神で、婦人病にかかったため淡島に流され、そこで婦人病を治す誓いを立てたとする伝承もあるが、これは、淡島が住吉大社の社領となっていたことによる後世の附会と考えられている。このことにより、淡嶋神社は、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となった(ただし、加太淡嶋神社では少彦名命が医薬の神であるからと説明している)。
江戸時代には、淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がった。
現在の社殿は豊臣秀吉の紀州征伐で焼失したが、その後浅野幸長が再建、紀州徳川家初代・徳川頼宣が修復を加え、さらに江戸時代末期に第10代・徳川治宝が造営、1979年(昭和54年)に現在の新社殿となった。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE


三連休ですね。またフェリー乗り場にきました。

原付無料キャンペーンのうちに利用しておかないとね。今回は大阪方面に行こうと思います。

今回は靴のヒラキで購入したウインターブーツ(1,380円)を装備。これで寒波でも安心!!

フェリーから徳島の街を眺める。あの森は津田山かな。

加太に着きました。

雰囲気のある漁港ですね。

こういう港町で生まれ育って、放課後に新垣結衣似のかわいい幼なじみに「釣り行こうぜ!」とか誘われて暗くなるまで遊んで帰りたい。
で、高校進学で別々の学校に行って、疎遠になるところまで想像した。

きゃわわわわわわわわわわわわ!!!!!!

取り乱しました。佐渡でも同じようなこと妄想してたな。独身をこじらせてるわ。

門前にお食事処がありますね。今回も朝起きられなくて昼過ぎの到着になってしまったので、ここで昼食にしましょう。

客引きの心象がよかったのでこの店にしよう。

メニューいろいろありますね。

たまご丼が気になりつつもしらす丼をチョイス。いけるね。

おなかも膨れたし、進みましょう。

注意書き。

お手手を洗ったら、さて、この神社の一番の見所を見ていきましょう。

ヒエッ・・・

おびただしい数の人形が・・・


ウィキペディアより解説を。
人形供養の神社としても有名で、境内には供養のために納められた、無数の雛人形や市松人形、はてはフランス人形までもが所狭しと並べられ、異様な雰囲気をかもし出しており、境内地下には無数の霊現象を見せる人形が安置されてもおり、そのため心霊スポットとしてマスコミに取り上げられることがある。
最近では人形のほかにぬいぐるみなどが納められることも増える一方、人形供養の名目で人形やぬいぐるみを不法投棄していく者もいて関係者を悩ませている。







すごすぎてめっちゃ撮影してしまった。


こちらの神社、前から気になっていたので参拝できて満足しました。実際見るとインパクト大でした。
感想:日本人形はこわい。
北畠神社
三重県津市美杉町上多気1148
北畠神社(きたばたけじんじゃ)は、三重県津市美杉町上多気にある神社。国の史跡「多気北畠氏城館跡」に鎮座し、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とする。建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持つ。
由来書によれば、北畠具房の4代孫鈴木孫兵衛家次が寛永20年(1643年)3月、旧縁の地に小祠を設けて北畠八幡宮と称したのが創祀という。ただし、当初は八幡神の勧請のみで、顕能を奉祀したのは元禄年間に下るとの説もある。やがて八幡三神に倣い、北畠親房・顕家を合祀する。1881年(明治14年)11月村社北畠神社に改称。1907年(同40年)12月多芸村内の16社を合祀し、1916年(大正5年)宝庫・社務所などを整備。1928年(昭和3年)10月社殿を新造して主神を遷座し、11月10日別格官幣社に昇格した。別当寺の真善院が現在の庭園の位置にあったが、天保11年(1840年)春に火災に遭い、再興しないまま1898年(明治31年)廃絶した。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE


オリジナル御朱印帳あります。かわいかったので衝動買い。きゃわわ。

最後の目的地北畠神社に到着。同じ津市内やけど、結城神社から遠かったなー。

山道を走り抜けてきたので、食事処もなかった。なんか食べたい。お、看板あるやんけ。

食事処や。ここで一休みを・・・
「すいません、満席です。」

昼飯は食べ損ねたが、気を取り直して参拝しよう。


北畠顕家公の銅像。


御朱印をいただく際、社務所の方と少し話をする。
「どちらから建武中興十五社巡りを始められたんですか?」
「霊山神社からです。」
「霊山神社ですか。遠かったでしょう。私も昔行ったことがあります。」
「遠かったですね。一宮巡りで福島に行ったときに、霊山にも寄ったんです。今行かないと、今度来るのは難しいと思って。」
「車じゃないと行けない立地ですよね。ま、ウチも遠いんですけどね。」
確かに北畠神社もアクセスは・・・仕方ないよね。

道の駅御杖の食堂で遅い昼飯。結構な値段するんですけど。ええけど。
その後和歌山港までひた走る。遠いよ。道もわからんし。

なんとか和歌山港に到着。無事に帰れてよかった。
フェリー原付無料は3月末まで続くようなので、またツーリングに行きたいですね。
感想:やっぱ三重は遠いわ。
川口白山比咩神社
結城神社
三重県津市藤方2341
結城神社(ゆうきじんじゃ)は、三重県津市にある神社である。白河結城氏の結城宗広を祀る建武中興十五社の一社にあたる。
結城宗広は後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加し、建武の新政以後の南北朝時代にも南朝方で戦った。北畠顕家親子に従って二度陸奥から京に向けて攻め上ったが、帰国の途中で難破し、伊勢国で没した。その墓と伝えられる場所には、塚の上に六体地蔵が置かれ、結城塚と呼ばれていた。1824年津藩の藩主藤堂高兌により社殿が造営され結城神社と呼ばれるようになった。
1879年(明治12年)に村社になった。翌年三重県を訪れた明治天皇が、200円を祭祀料として寄付した。これを機に結城神社の社殿改築、昇格の議論がおこり、県が内務省に願い出て、1882年(明治15年)に別格官幣社に列せられた。
以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE


鈴鹿から南に下ってくると津市に入ります。ありました結城神社。

けっこう参拝客多いぞ。


結城宗広さんを祀ってます。知らない人です。勉強不足です。

新田義貞とか楠木正成あたりはわかるんですけどねえ。名和さんとか結城さんとか菊池さんとかはちょっとマニアックですよね。

もっと勉強しないといけないですね。