2015年09月

國領神社

國領神社

東京都調布市国領町1丁目7番地1

國領神社(こくりょうじんじゃ)は東京都調布市国領町1丁目に鎮座する神社。また、境内に御神木の千年乃藤があることから「千年乃藤のお宮」とも呼ばれており、この藤の木は「ちょうふ八景」(調布八景)の一つに数えられている。

主祭神は神産巣日神。配祭神として天照大御神、建速須佐之男命を祀る。

以上ウィキペディアより。

国領神社 朱印

P9220143.jpg
布多天神から歩いてきました。近いな。

P9220142.jpg
国領神社だけど、最寄駅は布田。

P9220141.jpg
通りに面してるからこの角度でしか鳥居が写せない。

P9220144.jpg
藤。咲いてたらきれいだろうな。

P9220145.jpg

P9220146.jpg

P9220147.jpg
広くはないですが、藤の蔭になって雰囲気のある神社でした。

あと、オリジナル御朱印帳もあります。今回は見合わせたけど。

P9220148.jpg
早稲田のオトボケでジャンジャン焼き定食食べて、漫画喫茶でマスターキートン読んで休憩。

シルバーウィークすべて他人の家を泊まり歩くというのは疲れますな。

布多天神社

布多天神社

東京都調布市調布ヶ丘1丁目

布多天神社(ふだてんじんじゃ)は東京都調布市調布ヶ丘1丁目に鎮座する神社である。式内社。旧社格は郷社。
国領宿の小林信継が創建し、この神社は布田5宿の総鎮守であり、当時この神社の市場は賑わったとされている。

創建
創建年代は不明。社伝では垂仁天皇の治世とされる。延喜式神名帳に記述がある式内古社である。元の社殿は現在の布田5丁目にあったが、文明年間に多摩川が大氾濫を起こしたことをきっかけとし、1477年に現在地に移転した。かつての社殿地には古天神公園と名付けられた公園が整備されている。

祭神
当初は少彦名神を祭神としていたが、移転時に菅原道真を合祀。

布田天神社 朱印

P9220135.jpg
調布に来ました。布多天神に参拝するためです。

P9220136.jpg

P9220137.jpg

P9220138.jpg
天神社恒例撫で牛。

P9220139.jpg

P9220140.jpg
天満宮は絵馬あり、撫で牛あり、梅ありでやっぱり楽しい。

埼玉縣護國神社

埼玉縣護國神社

埼玉県さいたま市大宮区高鼻町3丁目149番地

埼玉縣護國神社(さいたまけんごこくじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座する旧指定護国神社である。
祭神
鳥羽・伏見の戦い以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊51,000余柱を祀る。
由緒
昭和以前に神籬を建てて鎮魂慰霊の祭祀を行っていたところ、昭和の初めに招魂社創設の機運が高まったため、同9年(1934年)4月9日に「埼玉県招魂社」として創祀、同14年3月に「埼玉県護國神社」と改称して4月に指定護国神社となった。戦後の昭和21年(1946年)2月に宗教法人となり、同23年10月に崇敬者の総意により一時「埼霊神社」と改称したが、同27年に「埼玉県護國神社」に復した。 また、平成25年10月には特攻勇士の像が建立された。

以上ウィキペディアより。

埼玉県護国神社 朱印
雨で文字がにじんでしまった。

P9210118.jpg
シルバーウィーク、野暮用で上京しました。さいたまスーパーアリーナでビール祭りがあるとのことで、大宮に向かいます。大都会大宮やで。

P9210117.jpg
夢ひろがるまち大宮。トトちゃんってだれや。

P9210119.jpg
ひとまず松屋で栄養を補給する。デジタル一眼で撮る牛丼は美しいな。

P9210128.jpg
一宮の氷川神社の近くに護国神社も鎮座しております。

P9210129.jpg
英霊に感謝しましょう。

P9210130.jpg

P9210131.jpg

P9210133.jpg


P9210132.jpg
国破れて山河なし。

P9210134.jpg
ビール祭りも楽しかったです。地ビールおいしいね。

厄除け総本山由加神社本宮

厄除け総本山由加神社本宮

岡山県倉敷市児島由加2852

日本三大権現の一つ、また厄除けの総本山として知られる由加山 由加神社本宮は二千有余年の歴史を持つ神仏混淆のお山。
その昔、磐座信仰(巨岩をご神体)と唱え近郊の人々の守護神として崇められ、その後七三三年(天平五年)に行基菩薩が十一面観音を祀り、併せて神仏混淆の霊山として崇拝されてきました。
桓武天皇の代以来、朝廷の祈願所として繁栄し、拝殿には菊花ご紋章を拝受しております。
江戸時代中期には備前藩主池田侯の祈願所として当権現・由加大神様への信仰は篤く、正月・五月・九月には藩主自らご参拝になられておりました。(その時ご参拝になられた建物が由加神社本宮ご本殿です)
また、『ゆがさん・こんぴらさん両参り』と云われ、両社をお参りすればご利益が沢山頂けるという『両参り』の風習が広がり、今も全国津々浦々から信仰されております。
過去の歴史などから見ても由加の権現様・大神様は『有求必應』“求めが有れば必ず應じて下さる神様”として、参拝者祈願者が後を絶たないのが現状です。

以上ホームページより。

由加山

由加山 (1)
今回の総社~倉敷ツアー。最後は由加山に行って終わることにします。道中で鳥居発見。

由加山 (2)
着いた。観光地っぽくていいですね。

由加山 (3)
厄を落としに行くぜ。

由加山 (4)
石段上るぜ。

由加山 (5)

由加山 (6)

由加山 (7)

由加山 (8)
焼き物の鳥居が。

由加山 (9)

由加山 (10)
浅草寺にある感じの線香燃やすスペース。

由加山 (11)
これって煙を浴びるタイプのやつなんですかね。作法は書いてないですけど。

由加山 (14)
タコがいます。海の神=タコなのか。

由加山 (12)

由加山 (13)
立派な神社でした。

で見カツ丼
サービスエリアで御当地グルメのデミカツ丼を食して帰路に就く。

車はカーナビがあるから迷子にならないのはいいけど、狭路には弱いですね。

PCXの良さを思い出した旅でした。また原付ツーリングいこっと。

木華佐久耶比咩神社

木華佐久耶比咩神社

岡山県倉敷市福江1671−4

当社は本国総社神名帳に神階従4位下木華佐久耶比め明神と記載され、備前国式外128社の内の一つである。 また中世から明治に至るまで福南山明現宮と称され、熊野五流一山の修験道場として栄え、近世においては備前池田藩累代の御祈願所として崇敬された。
 木華佐久耶比め命は、大山祇命の御子であり、天照大神の御孫、瓊々杵命の御妃となられ、桜の花の如く心身ともに麗しく日本国最古の国母の女神である。
 戦前戦中崇敬者は、県南全般に及び福南山の神社として広く知れ渡たっていた。しかし、戦後昭和23年不審火により社殿を焼失、現在参上には奥宮として石祠を残すのみとなった。
 昭和28年から昭和51年にかけ山麓の現在位置に社殿を再建し、その後平成12年幣殿、拝殿を改築し荘厳なる社殿に一新された。その他境内の整備にもつとめ、祭神に相応しく桜の植樹にも力を入れた。また、山頂の展望台からは瀬戸内海の島々が眺望できる。

以上岡山県神社庁より。

コノハナサクヤヒメ神社
書置きをいただきました。

コノハナサクヤ神社 (1)
ナビに従うと池の横のガードレールもない道を案内される。ホンマにこれが順路なのか。。

コノハナサクヤ神社 (2)

コノハナサクヤ神社 (3)

コノハナサクヤ神社 (4)

コノハナサクヤ神社 (5)

コノハナサクヤ神社 (6)

コノハナサクヤ神社 (7)

コノハナサクヤ神社 (8)
こちら女子力アップの神社とのことで、女性の方が一名参拝されてました。

コノハナサクヤ神社 (9)
帰り道に、普通の道があったことに気づきました。カーナビさん頑張ってほしいです。

福田神社

福田神社

岡山県倉敷市北畝3丁目14−53

当社は、福田新田旧五箇村(北畝、中畝、南畝、松江、東塚)の地が、嘉永5年から開墾されたのにともない、その地区の産土神として勧請され、文久2年に社殿を造営し、明治4年に創建された。
 御祭神は、天照大神、倉稲魂命、大國主命の三柱を主祭神として奉斎し、相殿に綿津見神、御年神を併せ祀っている。
 当社は、福田地区及び水島地区の総鎮守として篤く崇敬され、特に、方災厄除、商売繁昌、交通安全に御利益があるとされており、その御神徳から岡山県内を始め各地からの参拝者も多い。
 御本殿は、一間社入母屋造(前千鳥破風、向拝軒唐破風)檜皮葺で総欅造、塩飽大工の作といわれる。俗に、八棟造、王子造とも呼ばれ、三手先組にて彫刻が多く用いられているのが特徴で、屋根の曲線が美しく壮麗な造りとなっており、創建当時の姿を今にとどめている貴重な建物である。
 又、御祭神に天照大神を奉斎していることも関係し、伊勢の神宮に対しても崇敬の念深く、第61回神宮式年御遷宮に際しては、神宮司庁から神宮古殿社撤去材を払い下げされ、平成9年に「平成の御造営」として社殿(拝殿、中殿、祝詞殿)を改築した。

以上岡山県神社庁より。

福田神社

福田神社 (1)
こちらの神社は平地にあるので駐車しやすいですね。既に狭小路がトラウマになっています。

福田神社 (2)

福田神社 (3)

福田神社 (4)
きれいに管理が行き届いた雰囲気の神社でした。

阿智神社

阿智神社

岡山県倉敷市本町12-1

倉敷の総鎮守。倉敷市中心部、倉敷美観地区の北にある鶴形山と呼ばれる小高い山の上に鎮座している。古代、「亀島」「鶴形島」などと呼ばれていた現在地に住み着いた阿知使主の一族が作った庭園が元となったといわれている。 かつて岡山平野は吉備の穴海と呼ばれる海域で、当時は窪屋郡阿智郷であった現在の倉敷市鶴形山周辺は交通の要衝であったといわれ、そのため海上交通の守護神である宗像三女神を祀ったと考えられている。
境内には鶴亀様式とよばれる古代庭園がある。また「天津磐境」をはじめ磐座が多数有り、「斎館」と呼ばれる館の庭には陰陽磐座や水琴窟がある。他の建造物としては能舞台、芭蕉堂、絵馬殿等がある。 本殿北側にある「阿知の藤」は日本一の大きさと古さといわれ有名である。そのため倉敷市の市花に認定され、県の天然記念物にも指定されている。毎年5月5日には藤祭が開催されている。
鎮座地南麓の倉敷本町・東町(現在の倉敷美観地区東部)は門前町として発展、さらに港町としても栄えており、江戸時代には倉敷代官所が置かれたため陣屋町としても賑わい、多くの商家が建ち並んだ。そのため多くの裕福な氏子が増え、倉敷総鎮守として倉敷市内でも有数の大社に発展した。現在も多くの氏子を抱え、倉敷美観地区とともにたくさんの観光客・参拝客が訪れる。

以上ウィキペディアより。

阿智神社

阿智神社朱印帳
オリジナル御朱印帳があります。可愛いデザインですね。

阿智神社 (1)
倉敷の美観地区にあるので、観光客があふれる狭小な道を走ることになる。なんか車で来にくい場所ばっかり来てるわ。。

阿智神社 (2)

阿智
結婚式とかしてて、にぎわった雰囲気ですね。

倉敷の風景
こちらの神社もけっこう高い場所にあります。倉敷の街。

足高神社

足高神社

岡山県倉敷市笹沖1033

式内小社で、旧社格は県社。祭神は大山津見命、配神は石長比賣命・木之花佐久夜比賣命。神階は正四位上。別名「帆下げの宮」。江戸時代後期までは「葦高神社」と表記されていた。
倉敷市中心部の南部に位置する標高67メートルの足高山山上に鎮座する。現在は陸続きとなっているが、かつては「小竹島」または「笹島」と呼ばれる瀬戸内海(吉備の穴海)に浮かぶ島であった。他にも戸島、藤戸島、吉備の小島、奥津島などとも呼ばれていたという。
足高山は桃山時代から江戸時代前期の間に干拓され陸続きとなった。
江戸時代を通じ岡山藩の支藩である鴨方藩の祈願所となり藩主が替わるたびに参拝した。
現在、山上の神社周辺は足高公園となっており、春には桜の花見客で賑わう。

以上ウィキペディアより。

足高神社

足高神社 (1)
こちらも山の上に鎮座しており、細い坂道を上ることに。倉敷の神社立地が激しいんですけど。

足高神社 (2)
木陰がいい雰囲気。

足高神社 (3)

足高神社 (4)

足高神社 (6)

足高神社 (5)

足高神社 (7)

社務所で御朱印をいただいたところ、社務所の女性から

「最近御朱印流行ってるんですか?」と聞かれる。

こちらの神社にも一日に3人ほどは御朱印希望者が来るという。

すごいな御朱印ブーム。

鶴崎神社

鶴崎神社

岡山県都窪郡早島町早島2220


◆鎮座地 岡山県都窪郡早島町早島2220番地 

◆御祭神 大吉備津彦命荒魂(オホキビツヒコノミコトアラミタマ)

◆由 緒
御祭神の大吉備津彦命は、第7代孝霊天皇の皇子。第10代崇神天皇の御代人々は神祇を敬って天下にようやく災害も無く

なったが、遠国には未だ大和朝廷の命に従わないものが多くあった。そこで天皇即位の10年、天皇は皇族の中から4人の将

軍を選んで北陸(大彦命)・東海(武渟川別命)・西道(吉備津彦命)・丹波(丹波道主命)に派遣して天下を鎮定する事

となった。

命はその四道将軍の一人として西道(吉備国・現在の岡山県、兵庫県西部、広島県東部、香川県島嶼部)に下られ、当時の

有力な強賊(豪族)蟹梟帥(カニタケル)を征伐して、この国を平定された。その後吉備国に永住し国の統治にあたり281

歳の長寿を保ったとされる。

当社は、貞和6年庚寅2月21日(1350・南北朝)に吉備津神社から吉備津彦命荒魂(丑寅御崎大明神)を勧請したのが創建

とされ、その後元中元年(1384・南北朝)小社であった八幡神社(品陀和氣命)を再建し、現在の両社宮の形式となり御崎

宮と改称した。 文禄2年(1593・安土桃山)宮崎城主高畠市正貞政、安原備中守の手によって両社改築。慶長8年(1603・

江戸)安原和泉守が八幡神社を再建。享保4年(1719・江戸)両社再建。同11年神祇官領にて御崎宮神階正一位に昇進。明

治初年に社名を鶴崎神社と改める。

明治4年社格制度により郷社に列せられる。神職は太田家が社家として奉仕していたが、明治6年東太田家、西太田家は小田

県から士族に編入され、明治10年頃からは中太田家が社司(宮司)となって祭祀に当たった。

明治40年神饌幣帛供進社に指定される。昭和10年随神門改築。昭和28年宗教法人令が制定され神社は宗教法人となり明治

以降80年の神社に関する国家管理は幕を閉じ、その後は氏子により早島の総鎮守として守られている。昭和46年本殿屋根銅

板葺替。平成10年社務所移して改築。

春、秋の大祭には吉備津神社の七十五膳据神事と同様に御盛相(米を蒸し円筒形の型枠にはめ押し抜いたもの)を御膳に

盛ってお供えする特殊神事供膳祭が古式に則り行われる。また、秋祭りの神幸祭は寛保元年(1741)から行われており、早

島町の秋の風物詩として大きな賑わいを見せる。 

以上ホームページより。

鶴崎神社


鶴崎神社 (1)
ガソリンが尽きそうになり不安な気持ちで到着。

鶴崎神社 (2)
大きい灯篭。

鶴崎神社 (3)
グラウンドや、学校の近くにあります。

鶴崎神社 (4)

鶴崎神社 (5)

鶴崎神社 (6)
吹奏楽部の練習の音が聞こえてきます。いいですね。

両児神社

両児神社

岡山県倉敷市松島942

当社の創建は1800年前現在の倉敷市二子の高鳥居山北方50メートル余りの宮所という地に建立された。
 第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后は九州の熊襲が叛いたとき、天皇とご一緒に九州に下られ熊襲を討たれた後天皇はお亡くなりになられ三韓の内新羅が熊襲の背後にあってこれを援けている事を見抜き、武内宿禰と共に大勢の海軍をひきいて出兵し、新羅は降伏し帰国された。
 時に皇后のお腹には御子を宿されておられ、福岡県筑前国槽屋郡蚊田の産屋にて皇子を出産され(後の応神天皇)共に大和国盤余雅櫻宮に凱旋の帰都、船路を二子の地に寄せられ、熊襲、新羅戦勝の奉賽と皇子のご安泰を神に祈念された。皇后は神に大変感謝され、御太刀、鏑矢、朕懐石(筑前国深江村にて朕石を採取し守石として懐中した石、又肥前国浦上村にて採取し皇后妊身の為安産の守石として懐中した石)を奉納され、以後神社の宝物としてきたが、寿永2年源平戦の際馬頭、木曽義仲勢の戦場と化し、3品の宝物を地中奥深く隠したので奪われる事を免れたが、150年たった後宝物を地中から取り出した処、長年の月日の為、朽ち損なわれていた。その宝物は現在境内の戌亥の方位に御太刀を御神体とした御太刀神社が末社としてお祀りしてある。
 又当時の鎮座地は備の中津国都宇の郡二子、皇后が二子高鳥居山に宿られた事により都の家と言う意の都宇郡と名付く。地名二子は筑前国香雅宮にて誕生した皇子が、この地に立ち寄った時には2歳になられ、この宮を二子の宮と称し、地名を二ツ子の里(現在の二子)と名付けられた。
 第26代継体天皇11年辛酉の春、品陀和気尊を合祀し、社号を五座八幡宮と称した。
 この二子の里の沖に、松島と言う島があり、大昔は海に浮かぶ3つの小島からなっていた。特に中の島(現在川崎医科大学付属病院)の頂上に霊地があり、伝説によると二子の高鳥居山にある二子宮から毎夜不思議な神光が松島の霊地に向かって海を渡っていた。郷人達はこれは二子宮から松島の地に渡らせ給う印であろうと考えた。第48代称徳天皇の御代神託により現在の地に遷座された。
 その後万寿年間にこの地方が干拓され、人々の生活が始まり地名を万寿の庄とつけられる。当社は万寿の庄総鎮守五座八幡宮として崇敬された。(万寿庄=東の庄とは現在の庄、中の庄とは現在の中庄、西の庄は現在の大島あたり)
 寛文7年岡山藩主池田新太郎光政侯が万寿の庄の領内に令を下して神仏分離を行った際に、領内近郷11カ村(西は浅原、東は矢尾村)の小社、新社を五座八幡宮の相殿に寄宮として合祀し、春日神社の御神号を京都の吉田家から賜る。
 寛政年間万寿の庄内の村々に産土神社を奉斎し、松島、二子、西栗坂の3カ村の鎮守となる。明治5年社号を両児神社と改称し、現在も厚い崇敬を受けている。

以上岡山県神社庁より。

両児神社

両児神社 (1)
総社市から向かう。川崎医科大の近くですね。

カーナビに従って向かうと、またしても狭路。山の上の神社だから仕方ないが、対向車きたらと考えると不安になる。

両児神社 (2)
車で山頂の神社まで行ったので、本殿の写真のみ。楽やけど、写真が少なくなってしまうね。

まあ、下まで降りて、鳥居とか石段を撮影する体力はないんですけどね。