2015年08月

吉備津神社

吉備津神社

広島県福山市新市町宮内400

吉備津神社(きびつじんじゃ)は、広島県福山市にある神社。備後国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
通称として一宮さん(いっきゅうさん)とも呼ばれる。
福山市北西部、府中市との境に鎮座する。近くの府中市は備後国の国府のあった地とされるように、周辺は備後国の中心地であった。
備後国分立以前の吉備国を治めたとされる大吉備津彦命を主祭神に祀り、命の関係一族を配祀する。
江戸時代に造営された本殿は国の重要文化財に指定されており、他数棟が広島県・福山市の文化財に指定されている。また、重要文化財に指定されている狛犬・太刀数点が伝えられている。
古来は「吉備津彦神社」とも称していたが、現在は備中一宮と同じく「吉備津神社」を正式名としている(備前一宮のみ吉備津彦神社を名乗る)。

以上ウィキペディアより。

吉備津神社

弁天社 (2)
走っていると大きい池と看板が。

弁天社 (1)

弁天社 (3)

弁天社 (4)
池がめっちゃでかいんですけど。吉備津神社よりこっちのが目立つやろ。

吉備津神社 (1)

吉備津神社 (2)

吉備津神社 (3)
桃太郎が見えますね。

吉備津神社 (4)

吉備津神社 (5)

吉備津神社 (8)
摂社。

吉備津神社 (7)

吉備津神社 (6)
御朱印を戴くときに神社の人と少し話をする。

「ここから出雲も結構近いんですよ。」

「そうなんですか。でも今日はもう帰ります。島根は出雲大社もあるし、隠岐にも行きたいんで、またの機会にします。」

「隠岐はいいですよ!ただ、出雲大社のついでに寄るのは無理ですよ。隠岐のためだけに行くつもりで行かなきゃ。」

「わかりました。ありがとうございました(四連休ぐらいないと隠岐には行けなさそうやな…)。」

離島への参拝の困難さを痛感しながら帰路につく。暑すぎてこれ以上神社巡りは無理や。

あづま食堂 (2)
尾道ラーメン食べようかと思ったけど、しまなみ海道についてしまったので断念。道中見つけた定食屋に立ち寄る。

あづま食堂 (1)
から揚げ定食美味し!しまなみ海道はチャリダーもいっぱいいて楽しいですね。チャリダーの人たち暑くないのか?原付で移動するだけでも暑いんですけど。

素盞嗚神社

素盞嗚神社

広島県福山市新市町大字戸手1-1

素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市新市町大字戸手にある神社。式内社で、備後国一宮を称する。旧社格は県社。

社伝によれば天武天皇の治世であった7世紀ごろ(679年か)に創建したとされる。その後、遣唐使であった吉備真備が唐から帰国した後の天平6年 (734年)に備後から素盞嗚命を播磨の広峯神社に勧請したとされる。
『釈日本紀』巻7(卜部兼方、鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文(奈良時代か)の「蘇民将来」説話に「疫隈國社(エノクマノクニツヤシロ)」とあるのが当社とされるが、本来は摂社である「蘇民神社・疱瘡神社」であるとする説もある。『延喜式神名帳』には「備後國深津郡一座 須佐能袁能神社」と記載されている。
後に神仏習合によって仏教系の神である牛頭天王を祭神とするようになり、「早苗山天竜院天王寺」という真言系の別当寺が作られた。本堂である本地堂(現 天満宮)には本尊本地仏として聖観世音菩薩が祀られた。一般に牛頭天王の本地仏は薬師如来であるが、当社の観音祭祀の理由は不明である。また脇侍に不動明王と毘沙門天が祀られた。「江熊(エノクマ)祇園牛頭天王社」が正式な社名であるが、天王社、祇園社などとも呼ばれるようになった。
明治の神仏分離により、神社の道を選んだ当社の別当僧は還俗して神官となり、祭神は本来の素盞嗚尊に改め、現在の社名に改称した。

以上ウィキペディアより。

素戔嗚神社

素戔嗚神社 (1)
着きました素戔嗚神社。途中で対向困難な道ですれ違っておじいさんのマークⅡが脱輪したのを救助してから到着。細い路地って嫌ですよね。原付の利便性は狭路を気にしなくていいところですね。

素戔嗚神社 (2)

素戔嗚神社 (3)

素戔嗚神社 (4)

素戔嗚神社 (7)

素戔嗚神社 (6)

素戔嗚神社 (5)
この近くにもう一社の備後国一宮があるので向かいます。

艮神社

艮神社

広島県福山市北吉津町1丁目5番24号

艮神社

艮神社 (1)
福山八幡宮からスグのところにあります。参拝しやすくてありがたいですね。

うしとらって読めないんですけど。

艮神社 (2)

艮神社 (3)

艮神社 (4)

艮神社 (5)

艮神社 (6)

艮神社 (7)
暑さに気を付けてと神社の方に言われました。おっしゃる通りです。

福山八幡宮

福山八幡宮

広島県福山市北吉津町1-2-16

福山八幡宮(ふくやまはちまんぐう)は、広島県福山市北吉津町にある八幡宮である。福山城の北側にある松廼尾山に祀られている。
福山八幡宮は2つの社で構成されている。多くの場合、神社を並列して祀る場合、どちらかの本殿へ合祀することが一般的であるが、本宮は本殿、拝殿、随身門、石段、両部鳥居、参道、総門等それぞれが同一規模、同一形式で東西に並べて建てられており、全国に類例の少ない形式である。かつては、東御宮は延広(のぶひろ)八幡宮、西御宮は野上(のがみ)八幡宮と呼ばれ別法人として祀られていたが、1969年に両者の法人格を合併し「福山八幡宮」となった。備後福山の総鎮守とされ、境内には結婚式などを行う福山八幡宮会館のほか水野勝成を祀る聡敏神社や稲荷神社など多くの社も祭られている。
1951年広島国体では境内で柔道が行われた。
本宮は25年を式年としており、平成21年(2009年)三月三日に、御鎮座三百二十五年奉祝大祭を行う。

以上ウィキペディアより。

福山八幡宮

ここも福山城からスグの位置にあります。

福山八幡宮 (2)
境内広いですね。なかなかの規模。

福山八幡宮 (3)
似たような入り口が二つ。ウィキペディアに理由が書かれていて、なるほどと思いました。

福山八幡宮 (4)

福山八幡宮 (5)
同じ形で東西に並べて建っています。

福山八幡宮 (7)

福山八幡宮 (6)
関係ないけど御朱印いただくときの社務所からの冷気が羨ましいんですけど。外暑すぎるでしかし。

三蔵稲荷神社

三蔵稲荷神社

広島県福山市丸之内1-8-7

三蔵稲荷神社(さんぞういなりじんじゃ)とは広島県福山市丸之内の福山城北側にある稲荷神社である。

境内には本殿、社務所のほか能舞台がある。福山市民の間での認知度が高く、また毎年ミス三蔵稲荷を選ぶコンテストが行われることでも有名である。 祭神は宇賀魂大神・猿田彦大神・大宮女大神。

以上ウィキペディアより。

三蔵稲荷
護国神社から至近。くっそ暑い。

三蔵稲荷神社 (2)

三蔵稲荷神社 (1)

三蔵稲荷神社 (3)

三蔵稲荷神社 (4)

三蔵稲荷神社 (5)

三蔵稲荷神社 (6)
御朱印の対応をしていただいた方と少し話をする。彼は神社の生まれではないが、神道の大学を出て神社で働いているとのこと。

社家が代々世襲する神社もあるが、そうでないところは神社本庁からの任命制なので、社家の生まれではなくても宮司になったりするとか。

神社の世界も複雑ぜよ…。

備後護国神社

備後護国神社

広島県福山市丸之内1-9-1

備後護国神社(びんごごこくじんじゃ)は広島県福山市丸之内の福山城北側にある護国神社である。旧社格は内務大臣指定護国神社で、戦後別表神社となった。旧称阿部神社。
祭神は備後国出身の護国の英霊、大彦命・武沼河別命・豊幹別命および阿部正弘をはじめとする歴代備後福山藩主である。

明治元年、福山藩主・阿部正桓が、石見益田の役と箱館戦争での戦死者の霊を祀るために、旧深津郡吉津村に招魂社を創立したのに始まる。明治26年に福山公園(現在の福山城)の本丸人質櫓跡に遷座し、明治34年に官祭福山招魂社に改称した。昭和14年(1939年)に内務大臣の指定を受けて福山護國神社と改称した。
昭和15年(1940年)の紀元2600年を機に、芦田川河畔に新たに広大な境内と運動場を有する神社として建立されることになり、第二次世界大戦(太平洋戦争)の最中も工事が続けられていたが、完成目前の昭和20年(1945年)8月8日の福山大空襲によって焼失した。この敷地は現在、福山市体育館として使われている。
第二次世界大戦中後の一時期は「備後神社」を名乗っていた。また福山城本丸にあった元の福山招魂社に合祀されていた。昭和29年(1954年)に、社殿を阿部神社の本殿を改装したうえで合祀することが決定し、昭和31年(1956年)に復興し、それに合わせて、福山藩主の阿部氏が建立した阿部神社は境内社として残っている。現在の「護国の英霊」以外の祭神は、このとき合祀されたものである。翌昭和32年(1957年)に備後護国神社に改称した。
なお、阿部神社の時代には参道は南側にあったが、焼失した備後護国神社を移す際に参道石段を西側に移すとともに拝殿神門が建立されている。そのため、西側から参拝するのが正式であるが、南側からも参拝するのは可能である。また旧阿部神社の門も残されている。

以上ウィキペディアより。

備後護国神社

朝食
昨日飲んだ焼酎が濃かったのか、微妙な目覚めでスタート。ビジホの朝食を食す。メロンパン美味いなあ。

備後護国神社 (1)
駅のすぐ裏が福山城で、護国神社もすぐのところにあります。大きい鳥居発見。

備後護国神社 (2)
みたま祭り…そうか、お盆だからか。祭礼の邪魔をしてはいけないので参拝だけ済ませて退散。

国破れて山河なし。英霊さまには頭が上がりませんね。

別宮大山祇神社

別宮大山祇神社

愛媛県今治市別宮町3丁目6-1

別宮大山祇神社(べっくおおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市にある神社。伊予国一宮の大山祇神社の別宮。旧社格は県社。新四国曼荼羅霊場40番札所。

今治市中心部、国道317号に面して鎮座する。瀬戸内海の大三島に鎮座する大山祇神社の別宮である。
往時には本社と並ぶほどの威容を誇っていたと伝えられている。戦国時代造営の拝殿は、愛媛県の有形文化財に指定されている。
四国八十八箇所の55番札所は大三島の大山祇神社であったが、鎌倉時代以後は当社付属の別当寺・光明寺が札所とされた。明治初年に現在の南光坊として分かれ札所も移ったが、現在でも境内は隣接している。

社伝によれば、大宝3年(703年)、越智玉澄が文武天皇の勅命により大三島・大山祇神社から祭神を越智郡日吉郷に勧請し、大山祇神社の別宮(地御前)としたのに始まる。
和銅5年(712年)に社殿が造営された(これをもって創建とする説もある)。以後、大山祇神社の社家・大祝家の分家の別宮氏が神職を勤めた。
正治年間(1199年-1200年)、大山祇神社の24の僧坊のうちの8坊が別宮に移され、別当寺・大積山光明寺を称した。それまで四国八十八箇所の55番札所は大三島の大山祇神社であったが、参拝不便のため別宮大山祇神社(光明寺)が札所とされた。
天文20年(1575年)、落雷で社殿が炎上し、天正3年(1575年)に来島通総により再建された。僧坊8坊は天正年間(1573年-1592年)に長宗我部氏の軍勢により焼き払われ、後に南光坊のみが再建された。
近世は藤堂高虎をはじめとして歴代今治藩主の保護を受けた。
明治初年の神仏分離で南光坊が独立。昭和20年(1945年)、今治市街地は米軍の空襲を受けて当社の社殿のほとんども焼失したが、拝殿は焼失を免れた。

以上ウィキペディアより。

別宮

道の駅
夏休みだぜ!!いっしょに遊んでくれる人もいないのでPCXで旅立ちます。しまなみ海道に向かうで。

別宮 (1)
道中で鳥居が見えたので参拝します。


別宮
四国曼荼羅霊場の札所のようです。

別宮 (2)
オオヤマツミ神社ですね。愛媛と言えばオオヤマツミ。

別宮 (4)

別宮 (3)

別宮 (6)

別宮 (5)
オオヤマツミってなんで海の近くに祀られるんですかね。ヤマっぽい名前なのに。

別宮 (7)
くっそ暑いんですけど。

紫外線を浴びながらしまなみ海道を目指すで。

しまなみ海道 (1)
やっと見つけましたブルーのライン!!

しまなみ海道 (2)
このラインに沿って行くとしまなみ海道にたどり着きます。

しまなみ海道 (5)
見つけた。入り口が地味。

しまなみ海道 (3)

しまなみ海道 (4)
原付道で進みます。

しまなみ海道 (6)
海やで。

しまなみ海道 (7)

しまなみ海道 (8)
原付で走ってると風で汗が飛ぶから気づきにくいけど、地味に脱水になっていきます。ミラクルボディが気になって自販機に寄ったのに売り切れやんけ!!

福山 (1)
そんな感じで福山に到着。暑いので何もする気が起きず、ビジホで休憩して夜になってから散策。福山都会やな…。

福山 (3)
駅の東側の路地に入っていく。

福山 (4)
お稲荷さんがあるから、この路地は稲荷町の模様。

かすり (1)
お稲荷さんの横に気になる店が。

かすり (5)
一度来てみませんかと書いてあるので、入ってみます。

かすり (2)
階段を下ります。

かすり (3)
瀬戸内の魚が売りのお店。メニューがないから初心者では注文しにくいやん!と困りましたが、お隣の席の女性が煮つけを勧めるので煮つけを注文。美味し!!

かすり (4)
から揚げも注文。焼酎が進みます。駅から近いし、いいお店ですぜ。

松浜町 (1)
せっかくなので福山の街を散策。歓楽街は松浜町のあたりとのことで、歩いて向かう。

松浜町 (2)
駅からは少し離れてますね。暑い。

松浜町 (3)
見えてきました。大通り沿いにネオンが見えますね。

松浜町 (4)
なんか大通りにネオンが輝いてるのって新鮮な感じが。流石福山。要チェックですね。