2015年07月

伊和神社

伊和神社

兵庫県宍粟市一宮町須行名407

伊和神社(いわじんじゃ)は、兵庫県宍粟市一宮町須行名にある神社。式内社(名神大社)、播磨国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

海神社・粒坐天照神社と合わせて「播磨三大社」と総称される。

歴史
成務天皇14年または欽明天皇25年の創祀と伝わる。

『延喜式神名帳』には、「伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ)」(伊和に鎮座する大己貴神の社)とあり、正暦2年(991年)、正一位の神階に叙せられた。

播磨国一宮とされ、幾度か火災にあって焼失する度に朝廷、国司、守護赤松氏、近隣の藩主などの庇護で再建された。なお、鎮座地である一宮町(現・宍粟市)の地名は、播磨一宮の当社に由来する。[2]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%92%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE



伊和神社

道の駅 (2)
鳥取から激走し、着いた。宍粟市って(しそうし)って読むのね。読めんがな。

道の駅 (1)
道の駅なんで激混みなんや。。

伊和神社 (2)
今回の旅最後の神社へ向かうで。

伊和神社 (1)

伊和神社 (3)

伊和神社 (4)

伊和神社 (5)

伊和神社 (6)
御朱印ガールが写り込んでますな。

伊和神社 (10)
家族連れもいたし、なかなかにぎわってました。

この後、帰路に就く。かなり運転したな、今回の旅。アクセラ快適ですわ。

大神山神社(本社)

大神山神社(本社)

鳥取県米子市尾高1025

大神山神社(おおがみやまじんじゃ)は、鳥取県にある神社である。式内社、伯耆国二宮で、旧社格は国幣小社。伯耆大山山麓(米子市)の本社と山腹(西伯郡大山町)の奥宮とがある。奥宮の本殿・幣殿・拝殿および末社下山神社本殿・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。

当社の奥宮は、大山に登った修験者が、海抜900mほどの場所に簡易な遥拝所を設置したのが起源とされている。伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていたが、積雪により祭事に支障が生じるため、麓に冬宮を設置し、冬期はそこで祭事を行うようになった。これにより、現在の「奥宮」は「夏宮」と呼ばれるようになった。
大山は神体山として、大己貴命が鎮まるとされたが、神仏習合が広まると、当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とするようになった。その後、三院にして百八十坊の規模となり、三千人の僧兵を擁するようになった。
『勝見名跡誌』には伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山の鷲岸大明神が仲が悪く戦をしたとの伝承が載っている。元弘3年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った。
明治8年(1875年)、神仏分離によって大山寺を廃し(大山寺は後に再興)、冬宮を本社とし、山腹の智明権現の仏塔を廃し、地蔵菩薩を除いて、奥宮とした。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE



大神山神社
米子に来ました。鳥取の西の端ですな。

大神山神社 (1)
トライアスロンしてて運転しにくい。

大神山神社 (2)
コイが多いな…

大神山神社 (3)

大神山神社 (4)

大神山神社 (5)

大神山神社 (6)

親子丼
境港で海鮮食べたかったけど、バイパスが異様に混んでたので諦める。大山パーキングエリアで親子丼を食す。美味い!!

名和神社

名和神社

鳥取県西伯郡大山町名和556

名和神社(なわじんじゃ)は、鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社で、名和長年を祭る。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社である。社紋は、名和氏の家紋の帆懸船である。

歴史
承応・明暦の頃(1652年 - 1658年)、名和長年の威徳を慕う地元の人々によって、名和邸跡とされる場所に小祠が建立されたのに始まる。延宝5年(1677年)、鳥取藩主となった池田光仲が長年を崇敬し、名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営して遷座し、山王権現を末社として「氏殿権現」と称した。

明治初めの関係者の説明によると、神社の再興を志したのは光仲の子綱清で、毎年わずかな祭祀料をあてがった。くだって幕末の藩主池田慶徳が従来の小祠のそばに碑を立て、祀主を任じようと考えたが、果たせぬうちに廃藩になった[2]。

1873年(明治7年)に県社に列し、「氏殿神社」と改称した。

1876年(明治9年)6月22日、鳥取県が、名和氏の功績は楠木氏に比肩するから県社にとどめず国幣社格にしてほしいと内務省に伺を出した。10月には氏殿神社の祀官糟谷末枝が教部省に、11月には池田慶徳が宮内省に、それぞれ別格官幣社にしてほしいと願い出た。そして12月16日に島根県が二人の請願を後押しする伺を教部省に出した[3]。翌1877年(明治10年)の夏、池田慶徳は島根県庁から鳥取に至る道筋で氏殿神社に参拝し、その衰退を目撃した。慶徳はまもなく亡くなり、11月28日に子の輝知が父の遺志を継いで社格を進めることを請願した。このとき既に内務省も別格官幣社に列する方針を固めており、輝知の請願を受けて太政官にその実施を促した。こうして1878年(明治11年)1月10日、氏殿神社の社号を名和神社に改定し、別格官幣社に列することを太政官が決定し、名和長重以下の将士を配祀すべきことを命じた[4]。

この年、1878年(明治11年)の5月11日に、宮内省式部寮の式部頭坊城俊政は、名和神社の例祭日は談山神社以下の例により、長年が卒した日を太陽暦に換算して定めるとして、その日を延元元年6月晦日(30日)から紀元(皇紀)1991年8月15日と計算した。21日に例祭日が式部寮の具申通りに決定された[5]。

懸案だった老朽社殿の建築のためには島根県と内務省が案を練り、明治11年度から3か年、国から4769円21銭6厘の交付を見込んでの工事許可を1879年(明治12年)1月17日に得た[6]。1881年(明治14年)には外構・玉垣・厠なども国の費用で造ることになった[7]。社殿は1882年(明治15年)に完成し、1883年(明治16年)3月10日に遷座式が執り行われた。式では、勅使として参向した鳥取県令山田信道が、宮内省から下げ渡された新しい鏡を従来の神像にかわる霊代として奉納し、祭文を読誦した[8]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%92%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE



名和神社

名和神社 (1)
久しぶりの建武中興十五社です。今回は三木一草の一人、名和伯耆守長年さんの名和神社です。

名和神社 (2)

名和神社 (3)

名和神社 (4)
参道には桜並木。春はきれいだろうな。

名和神社 (5)

名和神社 (6)

名和神社 (7)

名和神社 (8)
工事中でした。

名和神社 (9)
建武中興十五社の御朱印帳を出すと、宮司さんに話しかけられました。福島の霊山神社や、成田の小御門神社に参拝済みなことに驚かれたようです。

まあ、その二社はガチで遠かったしね…。大変だった記憶がよみがえってきましたわ。。

残りも頑張って参拝しよう。

倭文神社

倭文神社

鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754

倭文神社(しとりじんじゃ、しずりじんじゃ)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内にある神社。式内社、伯耆国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。境内にある経塚は国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されている。

機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされている。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていた。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったという。着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っている。これについて、『式内社調査報告』では、元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと記している。

境内の塚が下照姫命の墓であると考えられていたが、大正4年(1915年)の発掘により経塚であることが判明した。その出土品の銘文から、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかった。このときの出土品である観音菩薩立像などは「伯耆一宮経塚出土品」の名称で、一括して国宝に指定されている。

戦国時代、当地を治めた武将に社領を没収され荒廃したが、天文23年(1554年)に尼子氏が社殿を再建した。また、地元の国人・南条氏からも寄進を受けた。その後当地を治めた池田氏も崇敬し、鳥取藩主の祈願所となった。昭和14年(1939年)、国幣小社に列格し、第二次世界大戦後は別表神社となった。

かつて主祭神であった下照姫命が女神であることから、安産に霊験があるとされる。本殿の後には、かつて「乳神」と呼ばれる神木があったが、現在は倒壊している。参道沿いには「安産岩」と呼ばれる岩がある。昔、毎回難産に苦しんでいた女性が願かけをし、その満願の日の夢に下照姫命が姿を現し、参詣の帰途、この岩の所で簡単に出産したため安産岩と呼ばれるようになったと伝えられる。この岩を削って飲むと霊験があるとされる。

創建年代
具体的な創建年代は不明であるが、平安時代初期にあたる大同3年(808年)の医学書『大同類聚方』には「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也 中暑小便止 頭痛煩熱 口乾者與之」(原文)という記述があり、これが文献上の初見とされている[1]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E6%96%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%B9%AF%E6%A2%A8%E6%B5%9C%E7%94%BA)


倭文神社

倭文神社 (1)
ちょっと雨が降ってきたが、無事到着。

倭文神社 (2)
駐車スペースが2台分しかない…。

倭文神社 (3)

倭文神社 (4)

倭文神社 (5)

倭文神社 (6)

倭文神社 (7)

倭文神社 (8)

倭文神社 (9)
少し山に入りますが、厳かな雰囲気のいい神社でした。

白兎神社

白兎神社

鳥取県鳥取市白兎603番地

白兎神社(はくとじんじゃ)は、鳥取県鳥取市に所在する神社。旧社格は村社。

白兔神を主祭神とし、保食神を配祀する。白兔神は日本神話に登場する因幡の白兎のことであり、その説話の内容から皮膚病に霊験のある神として、また、大国主と八上姫神との婚姻を取り持ったことから特定の人との縁結びの神としてかなわぬ恋をかなえ、特定の人との親交をより深めると信仰される。さらに、遠国の人もこの兎に願えば早く国に帰れるという。また医療の神でもある。

創建の由緒は不詳である。かつては兎の宮、大兎大明神、白兔大明神とも呼ばれた。戦乱で消失し、鹿野城主だった亀井茲矩により慶長年間に再興された。戦乱焼失後、白兎神の御神体は現白兎神社の南方10kmの山上に位置する松上神社に遷座されていたという。現在の本殿は明治時代の再建。亀井茲矩はこれに先立って摂津国(現:大阪市)の御霊神社(祭神:瀬織津姫)を当時の自邸敷地内に遷座・復興していた。

鎮座地は身干山と呼ばれる丘で、因幡の白兎が身を乾かした山と伝えられる。境内には、白兎が体を洗った御身洗池がある。御身洗池は旱天・豪雨のときでも水位の増減がないとされ「不増不減の池」とも呼ばれている。本殿の土台には28弁の菊の紋章が彫刻された菊座石が使われており、当社の創建に皇室の何らかの関わりがあるのではと言われている。境内ではないが、兎が体を洗ったと言う池ガマ、近くには国道9号を挟んで白兎海岸が広がる。

白兎海岸の西寄りには、白兎神社に合祀されている白兎川下神社と、すぐ沖には白兎がいたとされる淤岐島(淤岐ノ島、隠岐の島=おきのしま)がある。島には鳥居が立てられ、8月1日には神燈を流して祭礼が行われる[1]。

白兎神社の鳥居横には「道の駅神話の里 白うさぎ」があり、観光客で賑わいを見せる。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%85%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE



白兎神社

海 (4)
西へひた走っていると、右手に海が。

白兎神社 (1)
大きい鳥居が見えたので立ち寄りました。

オオクニヌシ
オオクニヌシさんや。

白兎神社 (2)
有名な因幡の白ウサギの場所なんですね。

白兎神社 (3)

白兎神社 (4)
砂像。

白兎神社 (5)
ガマ。

白兎神社 (6)
ウサギ。この石ころは、授与所で販売されている石の様子。

白兎神社 (7)

白兎神社 (10)

白兎神社 (9)

海
海や。海水浴客も多く来てますね。

宇倍神社

宇倍神社

鳥取県鳥取市国府町宮下字一宮651

宇倍神社(うべじんじゃ)は、鳥取県鳥取市国府町宮下にある神社。式内社(名神大社)、因幡国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われる。『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った大刀等を神として祀ったとあるのが当社の創祀かもしれない。吉田家本『延喜式神名帳』には、仁徳天皇55年、三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずになったとある[1]。なお、本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部であり、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたとされる。当地は遺跡が多く、国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心であり、当社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列し、同一宮とされた。承徳3年(1099年)、因幡守となった平時範が国府に初登庁した翌日に当社に参拝して奉幣や告文を行い、郡司からの利田請文を奉納したと知られる[2]。

中世以降、社領を失って衰退し、天正9年(1581年)、羽柴秀吉の鳥取城攻めで社殿全てが灰燼となり、神職も離散したが、『鳥取藩史』によると、江戸時代初期、寛永10年(1633年)鳥取藩主池田光仲の社領25石の寄進を受けて[3]社殿も復興したとされ、歴代藩主の崇敬を受けた。

明治4年(1871年)に国幣中社に列し、戦後は神社本庁の別表神社となっている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%80%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE



宇倍神社

朝食 (4)
さわやかな目覚めや。朝食バイキングやで!!

朝食 (2)
メニューの種類も豊富で色々とりすぎました。美味い!決してOホテル豊岡の回し者ではないよ!

どこに向かうか悩みましたが、鳥取方面に向かうことに。新温泉町を抜けて鳥取入りや。

宇倍神社 (1)
着いた。

宇倍神社 (2)

宇倍神社 (3)

宇倍神社 (6)

宇倍神社 (4)

宇倍神社 (5)
鳥取も東西に長いですね。これから西へ進んでいきます。

金刀比羅神社(京丹後市)

金刀比羅神社(京丹後市)

京都府京丹後市峰山町泉1165−2

金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)は京都府京丹後市峰山町にある神社、府社。文化8年(1811年)峯山藩7代目藩主であった京極高備の命により創建された。家内安全、商売繁昌、交通安全、開運厄除、大漁満足、海上安全、学業成就、病気平癒、安産などの神徳を有し、丹後一円から信仰を集め、地元では親しみを込めて「丹後のこんぴらさん」と呼ばれる[1]。

2017年(平成29年)4月、文化庁により、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー「日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定された[2][3]。

通史
京丹後市峰山町の金刀比羅神社は、文化8年(1811年)峯山藩7代藩主京極高備の命によって創建された。京極高備は、讃岐の金毘羅権現の霊威感応が迅速で、たびたび効験を深く感じたことにより、分霊を峯山に勧請することを望み、文化7年(1810年)3月、昌峯山増長院の僧・尊光に相談した[要出典]。金毘羅権現は日本一社として、分宮をしない掟があったが、当時の金毘羅権現別当であった金光院が、尊光と共に高野山で学んだ旧知の仲であったことや、高備の同族である多度津藩の京極家の縁もあり、分宮が認められた[要出典]。翌文化8年(1811年)2月19日に金毘羅宮で棟上式が行われ、四国へ代参していた峯山藩番頭渡辺但見俊猛によって、2月23日に御神体が当地に遷宮された。

当時の社殿は、 昭和2年(1927年)3月7日に丹後半島を襲った北丹後地震により、全壊し失われた。現在の社殿は昭和8年(1933年)に再建された[5]。

北丹後地震について
マグニチュード7と推定される北丹後地震では、峰山町は壊滅状態となり、金刀比羅神社も社殿を始め殆どの建造物が壊滅的な被害を受けた。そこで、府営の仮神殿に御神体を安泰。阿里山の檜材を得て昭和4年(1929年)から復興造営に着手した[要出典]。本殿・拝殿・斎館などの主要な建物は昭和5年(1930年)に再建され、昭和8年(1933年)にはひと通り修復を終えた。約6000坪の境内に、約180段の石段、本殿、拝殿の整備・復旧させるための低利資金は約14万円(消費者物価指数をベースにすると2017年現在の貨幣価値は約2億9,200万円[6])を要し[7]、多くが地元有志の寄付で賄われた。その時の寄付者の名が刻まれた芳名碑が石段脇に並んでいる。その中には (株) 丹後商工銀行(現京都銀行の前身[8]:京都銀行峰山支店が丹後商工銀行本店)、吉忠商店(現吉忠)、丸紅商店(現丸紅)ミヨシ石鹸合名会社(現ミヨシ石鹸)など、丹後地方の地場産業であるちりめん産業と縁のあった企業の名がある[9]。
増長院との関係について
増長院の尊光と金毘羅宮の別当の松尾寺金光院は同じ真言宗であり、青年の頃に高野山大楽院の衆坊で共に学んだ間柄である事から[7]、分霊勧請の斡旋を依頼しやすい交友関係があった。分霊後、太政官告示による神仏分離がされるまで別当寺として支配に当たった。増長院には、金刀比羅神社に関する文献等があったとされるが2018年現在は廃寺となっている[要出典]。
多度津藩との関係について
讃岐丸亀藩6万2000石の領地である琴平は、2代藩主京極高豊の男子3人が早世したため家の断絶を恐れ、宗家を5男京極高或に継がせ、4男京極高通は1万石を分与された[要出典]。その時に金毘羅宮のある象頭山(琴平山)が丸亀藩の支藩である多度津藩の領地となり、4代藩主京極高賢の代に峰山に分霊された。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%88%80%E6%AF%94%E7%BE%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E4%B8%B9%E5%BE%8C%E5%B8%82)



金刀比羅神社

金刀比羅神社 (1)
天橋立からすぐつきました。

金刀比羅神社 (2)

金刀比羅神社 (3)
池に亀が大量にいる。

金刀比羅神社 (4)

金刀比羅神社 (5)
人口密度がやばい。

金刀比羅神社 (6)
社務所でエサも打ってました。子どもがエサやるんやろな。

金刀比羅神社 (7)

金刀比羅神社 (8)

金刀比羅神社 (9)

金刀比羅神社 (17)


金刀比羅神社 (10)

金刀比羅神社 (11)

金刀比羅神社 (12)

金刀比羅神社 (13)

金刀比羅神社 (14)
日本で唯一、狛ネコ。確かに初めて見たわ。

金刀比羅神社 (15)

金刀比羅神社 (16)
子ども連れが遊んでました。やっぱりカメにエサはやるみたいやな。

ここから豊岡まで帰りました。宿が取れてよかったぜ。

ホテル豊岡
今日の宿はOホテル豊岡さんです。

受付のかわいい女性に「ポイントカードお作りしてもいいですか??」と笑顔で言われて

「…あ…いや…結構です」とキョどりながら答えてしまった。だって5回宿泊でポイント貯まるとか一生のうちに貯められなさそうでしたもの…。ごめんよ。。

豊岡駅 (1)
荷物を置いて、晩御飯を食べに出かける。豊岡駅、駅舎きれいですね。あんまり人はいないけど。

豊岡駅 (3)
駅前商店街。

豊岡駅 (4)
横の路地に飲食店等が点在。

双葉
今日の晩御飯は双葉さんにしました。豊岡小学校の近くなので、駅からは少し離れてますね。

双葉 メニュー (1)
とりあえず生で。車の旅やからあんまり汗かいてないけど、ビールは美味いな!!

双葉 メニュー (2)
シマアジ。

双葉 メニュー (3)
牛タタキ。但馬牛が有名なんですね。

双葉 メニュー (4)
砂肝揚げ。レモンチューハイにも合うぜ。

店主の方も愛想よくて、地元の人とも話せて、楽しかったです。ありがとうございました。

ラーメン
〆にラーメン食べて帰る。あんまりラーメン屋とかなさそうな雰囲気。飲み屋はちょこちょこありますが。

豊岡の夜 (3)


豊岡の夜 (1)

豊岡の夜 (4)
夜の豊岡。静かやね。飲みに来てる人もちらほら。いい感じや。

籠神社

籠神社

京都府宮津市字大垣430

籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏(あまべうじ)が宮司を世襲している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。

2017年(平成29年)4月、文化庁により、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー「日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定された[1][2]。

創建

豊受大神宮(伊勢神宮外宮)
籠神社奥宮の真名井神社は外宮の旧鎮座地と伝える。
社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし[4]、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている[4]。そして白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)[注 2] が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという[4]。その後養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える[4]。

伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承は古く、その比定地には諸説がある[3]。延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』では「比治乃真名井」から伊勢に移されたとし、『神道五部書』以来の伊勢神道では旧地を丹波国与佐宮としている[3]。籠神社をその地にあてたものとしては、建武2年(1335年)の文書の「豊受太神宮之本宮籠大明神」という記載[5]、天和年間(1681年-1684年)の籠神社縁起秘伝の「当社籠大明神ハ即豊受大神也」とし「与謝宮ハ則是籠大明神也」とする記載がある[5]。

概史
国史での初見は嘉祥2年(849年)に「籠神」が従五位下に叙せられたという記事で、その後六国史での神階は元慶元年(877年)の従四位上まで昇進した。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では丹後国与謝郡に「篭神社(籠神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。籠神社の西方には丹後国分寺跡もあり、当地一帯が丹後国の中心地であったことがうかがわれる。


雪舟「天橋立図」
天橋立の右上に籠神社境内が描かれる。さらに右下には実際には遥か沖合にある冠島と沓島が描かれる。
中世の籠神社境内の様子は雪舟の「天橋立図」(国宝、京都国立博物館蔵)に描かれている[5]。また『丹後国田数帳』には籠神社の神領について、籠宮田46町210歩や朔弊料田12町等、計59町3段210歩が記載されている[5]。しかし近世には社領を失い、わずか8斗4升4合であった[3]。

明治に入り、近代社格制度では当初国幣中社に列したが、昭和20年(1945年)に官幣大社に昇格した[4]。戦後は神社本庁の別表神社となっている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE



籠神社

海鮮丼

出石神社からひた走り、宮津市へ。もう3時だが、遅い昼食をとる。出石蕎麦と悩んだが、食べ損ねてここまで来てしまった。海沿いやし、海鮮丼やな!!

籠神社 (1)
着いた。どこかと思えば天橋立の近くやん。図らずも日本三景に来れた。

籠神社 (2)

籠神社 (4)


籠神社 (6)

籠神社 (7)
狛犬。

籠神社 (5)
ここから先は撮影禁止。

帰りにエンジンかけミスして、車が滑り出して危うく事故りかける。あぶねえ。

天橋立 (1)

天橋立 (2)
天橋立。美しいね!!

出石神社

出石神社

兵庫県豊岡市出石町宮内99

出石神社(いずしじんじゃ)は、兵庫県豊岡市にある神社。式内社(名神大社)、但馬国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
但馬五社の一社であり、通称として「いっきゅうさん」とも呼ばれる。

創建は奈良時代と伝えられており、貞観元年(859年)の日本記畧では但馬第一の大社と記されている。
神階は承和12年(845年)に従五位下を授けられ(『続日本紀』)、貞観10年(868年)に従五位上、同16年(874年)に正五位上まで昇叙した(『日本三代実録』)。延長5年(927年)『延喜式神名帳』において名神大社に列格された。
中世においても但馬国一宮として隆盛を誇った。なお但馬国の一宮には、ほかに粟鹿神社がある。永正元年(1504年)に兵火で社殿を焼失し、大永4年(1524年)に再建されて以降はかつての勢いが無くなってしまった。
明治4年(1871年)に近代社格制度における国幣中社に列格した。明治43年(1910年)に失火により社殿を焼失し、大正3年(1914年)に再建された。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE



出石神社


出石神社 (1)
このあたりまで来ると冠水の影響もなく、スムーズに到着。豊岡市、兵庫県の日本海側やね。

出石神社 (2)

出石神社 (3)

出石神社 (4)

出石神社 (5)
祈祷をされていたので、具終わった後に宮司さんから御朱印をいただけました。ありがとうございました。

この後、籠神社へ向かうために京都方面へ。そんなに遠くないね。

粟鹿神社

粟鹿神社

兵庫県朝来市山東町粟鹿2152

粟鹿神社(あわがじんじゃ)は、兵庫県朝来市にある神社。式内社(名神大社)、但馬国一宮。旧社格は県社。但馬五社の一社。

但馬国随一の古社であり、2000年以上の歴史があるとも言われる。日下部氏との関係が深い。
粟鹿とは、鹿が粟を三束くわえて山(粟鹿山)から現れ、人々に農耕を教えたことからつけられ、粟鹿神社にその鹿が祀られていると言う。和銅元年(708年)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)。朝廷の信頼厚く、国家の大難に対して4度の勅使が遣わされたと伝えられており、約600年前には勅使門が建立されている。

概史
「粟鹿神」の記述は古代史料から見え、天平9年(737年)の『但馬国正税帳』[1]によると、粟鹿神戸は租代が六十六束二把、調絁二匹疋丈五尺を直稲百六十五束で買い取るとある。更に、『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒[2]には、「粟鹿神」に但馬国から神戸が二戸充てるとある。『延喜式神名帳』では、但馬国朝来郡に「粟鹿神社 名神大」として、名神大社に列すると記載されている。

弘安4年(1281年)、蒙古襲来に際し、当社に勅使卜部兼直を遣わし祈願した際に勅使門が建立される。この勅使門は、応仁の乱の兵火で社殿が消失した際唯一焼亡を免れたとされ、それ以前から残る唯一の建物とされている。

近代社格制度では、明治5年(1872年)2月に郷社、明治12年(1879年)5月に県社に列格した。

但馬国一宮について
但馬国一宮は出石神社と当社の二社とされる。但し、いくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の但馬国大田文では当社を二宮としているが、室町時代の大日本国一宮記では当社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていない。現在は両社ともが但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E9%B9%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE



粟鹿神社

ローソンのパン (2)
三連休やで。台風一過で天気もいいし、神社巡りに出るで。ガソリンもいれて、ローソンでパン食って出発や!!

淡路島過ぎたら高速道路が冠水してて大渋滞。垂水で降りる。混みまくり。道わからん。下道で兵庫県を縦断していく。
粟鹿神社 (3)
着いた。7時前に出発したのに昼過ぎやで。。

粟鹿神社 (1)

粟鹿神社 (2)
駐車スペース広いからお車での参拝OKやで。車以外での参拝手段なさそうな立地やけど。

粟鹿神社 (5)

粟鹿神社 (6)

粟鹿神社 (7)

粟鹿神社 (8)

粟鹿神社 (9)
境内広い。

粟鹿神社 (11)
コイ。

粟鹿神社 (10)

粟鹿神社
神社近くに宮司さん宅があるので、御朱印いただけました。奥様らしき方から「出石神社と、籠神社はここから近いですよ」とのお言葉をいただき、兵庫県を北上することに。ありがとうございました。