2014年11月

伊曽乃神社

伊曽乃神社

愛媛県西条市中野甲1649

伊曽乃神社(いそのじんじゃ、旧字体:伊曾乃神社)は、愛媛県西条市中野にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「御所車」。

豪華絢爛な「西条まつり」で最大規模のだんじりが奉納される神社として知られる。古くは「磯野宮」とも称した。

創建
社伝によれば、第13代成務天皇7年に伊予御村別(みむらわけ)の祖の武国凝別命(景行天皇の皇子)が東予地方を開拓するにあたり、皇祖神である天照大神を祀ったことに始まるという。武国凝別命は天照大神の分霊を奉じて伊勢国から伊予に渡り、今の同市朔日市の御船森に着いたという(「御船森」は御舟川沿いにある)。

孝徳天皇の大化年中(645年-650年)にこの地方が「神野郡」(のちの新居郡)と命名されたのは、伊曽乃神社などにより既に神が祀られており、この地域が神の地(かみのち)と呼ばれていた事に由来するとの説がある。

概史
文献では、古く『続日本紀』天平神護2年(766年)条において、「伊曽乃神」に従四位下の神階を授けるとともに神戸5烟を充てる旨が記されている。『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒では、当時の「伊曽乃神」には神戸として伊与国から15戸が充てられていたが、そのうち10戸は天平神護元年10月の符、5戸は天平神護2年12月3日の符によるとしている。

その後の国史では、貞観8年(866年)に正四位下、貞観12年(870年)に正四位上、貞観17年(875年)に従三位に昇叙された旨が記されている。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では伊予国新居郡に「伊曽乃神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

永治元年(1141年)には正一位に叙され、崇徳天皇より勅額を賜ったという。

天正13年(1585年)には豊臣秀吉の四国征伐により社殿・社宝等兵火にかかって一切焼失し、難を避けて土佐国へ遷座。慶長11年(1606年)旧地に復座する。

近代社格制度の発足に際しては、祭神不詳として官社の認可を受けられず、伊予国第一県社とされる。昭和15年(1940年)長年の昇格運動が実り、国幣中社に昇格した。

近年は「ISOの神社」の語呂合わせからISO取得・永続の祈願を行っている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9B%BD%E4%B9%83%E7%A5%9E%E7%A4%BE



伊曽乃神社

磯野大鳥居
石鎚山からの帰りに表札を見つけ、立ち寄る。田んぼの中に大きい鳥居が。

いその表示
いその神社、「磯野」とも表記するとのこと。「磯野ー!野球しようぜー!」

磯野参道

磯野いちょう


磯野手水

磯野本殿
七五三の人が多いですね。

この花昨夜
コノハナサクヤ。

摂社天神
摂社の天神さま。

磯野本殿 (2)

磯野斜め

なかう
帰りになか卯で昼ごはん。なか卯の親子丼って美味いですよね!!

石鎚神社成就社

石鎚神社成就社

愛媛県西条市小松町石鎚422

石鎚山中腹 石鎚登山ロープウェイを下車し徒歩約20分の場所に御鎮座。御祈願、ご祈願を行い、土小屋遥拝殿とならび霊峰石鎚山への登拝の重要な拠点となっています。

成就社は、千三百年余の昔、石鎚山開山の祖、役小角が石鎚山頂を拝さんとして、心身を清め山頂を目指しましたが、どうしても山頂に至る事ができず、力尽きて下山しようとしたところ、成就社境内で、ひたすらに斧を研いでいる一人の白髪の老人に出会いました。小角は、不思議に思ってわけを尋ねてみると「この斧を研いで針にする」とのことでした。この言葉に小角は感銘し、再び行を続け、西日本最高峰の石鎚山を開山することができました。

因みに、この時の老人が石鎚大神(石鎚毘古命)だと伝えられ、以来小角の心願が叶ったことから、ここを「成就社」と称し、お社が祀られ、今に全国各地より諸願成就の成就の宮として広く尊崇を集めています。また、小角は山頂より下山し、遥かに山頂を見返し、「吾が願い成就せり」と改めて石鎚山を拝したところが、現在の成就社境内に建立されている「見返遥拝殿」の所だと伝えられています。この故事に倣い不屈の精神を培い、物事の成就を祈り、またその願い事を叶えるお社、それが文字通りの「成就社」であり、表石鎚の成就の地名の由来でもあるのです。

以上ホームページより。 http://ishizuchisan.jp/about/fourcompanies02/



石鎚神社 成就社

金曜日、ガールズバーの店員と串カツを食べた後飲みに行き、ダーツで遊んでご満悦で帰宅。

土曜日、朝から二日酔いで半日潰す。昼から3DSでルーンファクトリー4で遊ぶ。牧場物語シリーズ初めてだけどおもしろいね。ゲーム内のキャラと仲良くなると結婚できるらしいんだけど、女キャラを冒険に誘うと「今忙しいの~」と断られるのでオークとゴブリンをパーティーに入れて遊んでます。

二日酔いとゲームのせいか体内時計が狂い、22時ごろに目覚めて眠れない。

「このままだと昼夜逆転して、月曜の仕事に差し支える…無理にでも朝型の生活に切り替えないと…」

5時の石井

と、いうわけで無理やり家を出ました。時間はAM5:10。まだ夜なんですけど。

6時半の池田
せっかく早起きしたので、遠出してみる。西へ進む。早起きっていうか眠れてないだけですけど。

6時半の池田 (2)
三好市のコンビニ。ちょっと明るくなってますね。

登り口
192号線をひたすらに進むと、つきました、石鎚山。すごい寒いんですけど。バイク置いたら300円取られる。しょうがない。

途中の自社 (2)

修験道の山ですから、神社みたいな寺みたいなのがいっぱいありますね。

途中の自社

地蔵、役小角
役行者さん。

ろぷうぇい乗り場
ロープウェイで上を目指すぜ!

ここで周りを見ると、何人かロープウェイ待ちの人がいます。

服装はモンベル、カリマー等の登山スタイル。

対する私の服装は、ポールスミスっぽいマフラー(ライトオン)、黒のライトダウンジャケット(しまむら)、青のシャンブレーボタンダウンシャツ(しまむら)、ベージュのチノパン(しまむら)、靴下(ユニクロ)、スニーカー(ナイキのターミネーター)。

キミ山を舐めてるよね?って言われかねないファッションで来てしまった。しかもしまむら率が高い。だって登山する気なかったんですもの…

ココア
場違いな服装で傷ついた心をホットココアで癒す。俺だけ浮いてるなあ…「こういう軽い気持ちで山に来るやつが遭難して迷惑をかけるんだよ」って思われてる気がする。きっと気のせいだけど。

kロープウェイからの景色
恥辱に耐えながらロープウェイに乗る。すごい角度やな。恐いで。

ロープウェイ降りて景色
着いた。いい眺めや。

ロープウェイ降りて景色 (2)

広場写真

道中標識
ロープウェイから歩いて20分。そんなに遠くはないですね。

道中の自社


入り口看板
しばらく歩いてたら着いた。

石鎚大鳥居

石鎚鳥居

石鎚手水

石鎚竜王者

石鎚見返り者
見返遥拝殿。願いがかなった後、見返った場所とのこと。山頂が見えます。

石鎚見返り斜めw

石鎚本殿

石鎚本殿斜め
早かったせいか登山客も少なかったですね。帰りは多くすれ違いましたが。

石鎚神社 御朱印帳
オリジナル御朱印帳を拝受しました。登山の様子が描かれています。険しすぎじゃね?

帰り標識
ご苦労様でした。

石鎚山帰り道
流石に日が昇ったら暖かくなってきてよかった。

帰り道紅葉
紅葉してますね。11月末ですからね。

松琴山金刀比羅神社

松琴山金刀比羅神社

徳島県阿南市福井町土佐谷三番地

松琴山金比羅

鳥居
参道が崩落しているとの注意書きが。

さざれ石
丁度宮司さんが掃除をしていたので話を聞けました。これは大きいさざれ石。

八坂神社
摂社の八坂神社。

摂社
こちらの神社、山の上にあるけど、広い敷地できれいです。参拝客も結構いらっしゃるそう。

「有名人も来るよ、渡哲也さんとか」

とのこと。すごいやん。

博学狸
博学狸。狸問答が有名なのだそう。

盛親の妻の碑
長宗我部盛親の妻のお墓。知らない人がいたら困るので解説。

長宗我部氏は、土佐の戦国大名。長宗我部元親公の代に四国をほぼ統一しましたが、秀吉の四国征伐で土佐一国を安堵されました。

長宗我部家の跡継ぎは長男の信親でしたが、九州征伐の際に討死したため、弟の盛親が後を継ぎました。

その後、関ヶ原の乱が勃発。長宗我部氏は西軍に付いて改易。

改易されたあとの盛親公は、京都で寺子屋をして生活していました。

その後、徳川家と豊臣家の対立から、豊臣家は財宝をばらまいて全国の浪人を大阪城に集め始めました。

そこで盛親公も大阪へ参じ、豊臣に味方します。いわゆる大坂の陣です。

大阪城では、関ヶ原で大群を率いたことがある盛親公は重宝され、五人衆と呼ばれます。

御家再興のため、豊臣家のために戦った盛親公でしたが、敗れて捕えられます。

徳川方に捕らえられ白州に引き出された際、「徳川方第一の戦功は八尾で大坂方を破った井伊直孝、大坂方敗戦の因は八尾で敗れた長宗我部盛親」と答えたと言われる。

「なぜ潔く自害しなかった」と聞かれると「生きていれば再起して家康の首を狙えるから」と答えたとも。

最後は六人の子女と一緒に六条河原で斬首されました。

故郷土佐で盛親の訃報を聞いた妻、せめて骨の一片でもと思い家臣数名と愛犬国照を連れて土佐を出ます。

苦しい旅で失明しても京へ向かっていましたが、道中で強盗に襲われて銃殺されます。

かわいそうに思った村人たちは、土佐が見える山の上に遺骨を祀り、神社としました。

後世神社
後世山に祀ったので、後世神社です。それにしても長宗我部盛親かわいそうですね。関ヶ原の本戦も、吉川隊が邪魔で参加できてませんし。ついてないね。

手水

金比羅
最近改修したそうで、きれいですね。

日和佐浦 (2)
宮司さんとお別れし、南阿波サンラインに入り、記念撮影。

日和佐浦
中々の景色やな。天気が良くてよかった。

丹生官省符神社

丹生官省符神社

和歌山県伊都郡九度山町慈尊院835

丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は和歌山県伊都郡九度山町慈尊院[1]にある神社。九度山町慈尊院集落の南部に位置する。

本殿は国の重要文化財(建造物)[2]、境内は国の史跡「高野山参詣道」を構成する「町石道」の一部として史跡に指定されている[3][4]。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部として登録されている[5]。

歴史
空海(弘法大師)が真言密教の道場の根拠地を求め歩いて大和国宇智郡に入ったとき、そこで猟師の姿に扮した地主神・狩場明神(高野御子大神)に紀伊国にある霊地・高野山の存在を教えられた。狩場明神はその使いである白・黒二匹の犬に空海を高野山まで導かせた。この後、弘仁7年(816年)、空海は嵯峨天皇から高野山の地を賜った。この縁により、空海は高野山の地主神狩場明神とその母である丹生都比売大神を高野山の入り口である当地に丹生高野明神社として祀ることとした。また、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地ということで別名を神通寺としたが、当社の社名は、丹生七社大明神や丹生神社へと変わっていった。当社の建立と同時に当社の入り口である石段の下には高野山の政所として慈氏寺(現・慈尊院)も建立されている。慈氏寺の壇(弥勒の壇)と神通寺の壇(明神の壇)を合わせて慈尊院と呼ばれた[6]。

当社は高野山の領する官省符荘の鎮守とされ、応永3年(1396年)の文書に「官省符鎮守・神通寺七社」との記録がある(『官省符荘庁番殿原請文』)[7]。

この他にも神通寺七社明神の記録があり、七社のほかに十二王子社・百二十番神社などの名前が挙げられている。また、『紀伊続風土記』によれば、七社のうち丹生・高野の両神は弘仁年間(810年 - 824年)に空海が勧請し、十二王子と百二十番神の2社が同時に勧請され、気比・厳島の2神は文明年間(1469年 - 1487年)に勧請されたと伝えられており、これら4社は天文年間(1532年 - 1555年)の紀ノ川洪水によって昔の境内が沈んでしまったので移転したという[7]。

明治時代に慈尊院から独立し、1910年(明治43年)に九度山、入郷、慈尊院(現・九度山町)にあった諸社を合祀している。1946年(昭和21年)、丹生官省符神社の社号に改められた[6]。

境内の北にある階段を下がると途中に町石・百八十町石があり、さらに下ると慈尊院がある。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E5%AE%98%E7%9C%81%E7%AC%A6%E7%A5%9E%E7%A4%BE



丹生官省符神社

丹生官省符神社 (2)
九度山、といえば真田親子が流された場所ですね。最初は高野山に流されましたが、嫁さんを連れて行きたいので九度山に移住したと。

丹生官省符神社 (3)

丹生官省符神社 (4)

丹生官省符神社 (5)

丹生官省符神社 (6)
この近くに丹生都比売神社(紀伊国一宮)があると思って、宮司さんに聞いてみると、結構離れているとのこと。地図も見せてもらえた。山の方なんやな。

丹生官省符神社 (1)
高野山への距離を書いた道しるべ。また改めて来よう。

晩飯
なんか疲れたので帰ることに、雨の中和歌山港を目指す。暗くて死ぬかと思った。そして道がわかりにくい。

晩飯はフェリー乗り場でとんかつ。

フェリー
無事にフェリーの時間に間に合ってよかった。本数が少ないですからね。

フェリー萌えキャラ帰り (2)
最後はよくわからん萌えキャラで。また来るよ和歌山!!

玉置神社

玉置神社

奈良県吉野郡十津川村玉置川1

玉置神社(たまきじんじゃ)は、奈良県吉野郡十津川村にある神社。大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の9合目に位置し、大峯奥駈道の靡(なびき)のひとつである。

社務所および台所[1]、梵鐘[2]は国の重要文化財。境内地の杉の巨樹群は奈良県の天然記念物[3]。2004年7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部[4]。

歴史
社伝の『玉置山縁起』では崇神天皇によって崇神天皇61年(紀元前37年)に、熊野本宮(和歌山県田辺市本宮町)とともに創建されたと伝えられ[9]、古来より十津川郷の鎮守であった[10]。しかし、『旧事紀』には崇神天皇61年の記事はなく、玉置神社のことも伝えられていない一方で、『水鏡』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、創建年代は不詳である[11]。『玉置山縁起』をはじめとする社伝は、玉置山山頂近くに露頭する玉石を神体とする末社玉石社を玉置の称の由来とし、地主神または奥の院と位置づけており、山容を神奈備として崇拝することが起源であったと考えられている[9]。

この玉石社では大己貴命が祀られており、同社には社殿・祠の類は無く、白い玉石群に囲まれ、地中からわずかに一部が露出している黒い丸石を御神体としている。この黒い丸石の地表に出ているのは、この石のほんの一部分に過ぎず、その地中に隠れている部分は測り知れないほどの大きさであるといわれており、神武天皇が神武東征の折、この石の上に神宝を置いて勝利を祈ったとされる。また役行者が竜王の脳から出た宝珠を、あるいは弘法大師が自分の宝珠を、この玉石群の下に埋め祀ったといわれている。

玉置山を熊野三山の奥の院と称するのは江戸時代中期頃に初見され、寛政年間の玉置山別当高牟婁院宛沙汰書は「玉置山之儀熊野三山奥院格別の由緒ニ付」と記し、『紀伊続風土記』は熊野本宮に玉置神社の遥拝所があったと伝える[12]。神仏習合の後には、不動堂や大日堂を中心とする修験霊場となり、多数の塔頭・社坊が営まれた[13]。社殿や祭神には時期により異同があり、今日にない社殿や、今日と社殿を異にする祭神も見られる[14]。

鎌倉時代の寺社縁起『諸山縁起』に「玉木宿」とあるほか、『金峯山本縁起』に挙げられる百二十宿の中に「玉水宿」の名で記され[6]、室町時代には入峯の宿となった[13]。大峯・金峯・熊野を結節する要地として順峯・逆峯のいずれの大峯奥駈行においても重視され、その過程において社寺としてのかたちを得たと考えられる[15]。江戸時代の聖護院門跡の大峯奥駈行においては峯中結願所として終点になっていた[16]。

慶長年間の頃、社坊の一つ笹坊が、戦乱に乗じて十津川郷で恣意的な徴税を行ったところ、十津川の住人の訴えにより江戸幕府の聞き及ぶところとなり、笹坊とその共謀者は追放され、笹坊の所領は幕府に差し押さえられた。その後、元禄年間に至って社堂造営のため笹坊の旧所領の山林を伐材して財源とすることを試みたが、口添えする本寺がないため幕府に許されず、元禄4年(1691年)、安井門跡を本寺として頼み込んで造営を成し遂げた[17]。以来、安井門跡の支配下に入ったが、別当が神領の立木を乱伐する旨が聖護院の関心をひき、門跡入峯の際の要衝を保護するため、享保12年(1727年)からは聖護院門跡が玉置山を支配下におさめた[18]。社家・神職と社僧の間には長きに渡って確執があったが、このように相次いで有力な門跡の支配下に入ったことにより、社僧が優位に立った[18][19]。聖護院門跡の下では、別当寺院の高牟婁院が建立され[20][21]、7坊15か寺を従えて繁栄をみたものの、門跡の威光を借りた社僧が玉置山神領の山林だけでなく、近隣諸村の山林をも横領して聖護院領としたため、十津川郷との関係は疎遠なものとなった[20][22]。一山の収入も高牟婁院に差し押さえられ、社家には割り当てられなかった[23]ため、社坊は衰退して数を減らした[24]。

明治の神仏分離に際しては、十津川村内の他の寺院の例に漏れず、玉置山の仏教諸堂は破壊され、仏像なども破棄された[25]。玉置山参道入口のある大峯奥駈道の本宮辻の近くには、「十津川五十余ヶ寺供養塔」なる文字の記された卒塔婆が今日に残っている[20]。

伝説では、平資盛が秘かに安徳天皇を擁し三種の神器の剣と鏡を奉持して玉置山中に隠れ、その子孫が玉置氏と名乗り、玉置神社の社掌となったとされる。

近くの天河神社とともに一部の神道関係者から、非常に重要視されているが、最近特にその傾向が強くなってきている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%BD%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE



玉置神社

十津川
国道168号線を進んでいると、奈良県に入ってしまった。日本一大きい村の十津川村。休憩所からの写真。景色やばくね?

玉置神社
せっかく十津川村にきたので、神社へ向かう。山道をひたすら上り、到着。

玉置神社 (2)

玉置神社 (3)
紅葉。

玉置神社 (4)

玉置神社 (5)
結構歩くとこの鳥居が。まだ歩くんか。

玉置神社 (6)
変な植物。

玉置神社 (7)
もしかしてこっちがメイン通り?悪路すぎるやろ。

玉置神社 (8)

玉置神社 (9)
吹石一恵ってなってるけど本人?

玉置神社 (10)

玉置神社 (12)

玉置神社 (13)

玉置神社 (14)
社務所。

玉置神社 (16)

玉置神社 (15)

玉置神社 (17)

玉置神社 (18)
帰りは別ルートから。霧が。

玉置神社 (19)
白んでるな。

玉置神社 (11)
寒かったから駐車場の売店できつねうどんとめはり寿司。めはり寿司は目を見張るほど美味いからとのこと。

玉置山 (2)

玉置山
駐車場から。すごい雲海。

玉置神社御朱印帳
こちらの神社にはオリジナル御朱印帳があります。

参拝後、急ぎ下山し、かつらぎ町を目指す。遠いなあ。

熊野那智大社

熊野那智大社

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町井関1054−3

熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。熊野三山の一つ。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。また、熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。

熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部[1]。

歴史
熊野三山の成立まで
『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成の詳細は不明。熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後である。当初は那智滝の正面にある現・飛瀧神社の地に社殿があった。

一説には、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神が勧請されて当社が滝本で創建されたともいう。

祭神は熊野夫須美大神であるが事解男命(事解之男神)とする説がある。その熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、熊野久須毘命とする説もある。[2]

仁徳天皇5年(317年)に社殿が現在地に移転されたとされる。

大同元年(806年)の『新抄格勅符抄』には天平神護2年(766年)熊野速玉男神(新宮の主神)とともに熊野牟須美神の記述があり、それぞれ神封戸が4戸あてられている。しかし、その後は貞観元年(859年)1月27日、同年5月28日、貞観5年(863年)3月2日の速玉神と坐神(本宮の主神)が従五位上に昇階した事に関する『日本三代実録』の記事に牟須美神(ないし夫須美神)の記述がない。延長5年(927年)延喜式神名帳の牟婁郡6座中にも熊野速玉神社、熊野坐神社の二社のみが書かれている。

一方、永観2年(984年)の『三宝絵詞』では熊野両所として速玉神とともに当社主神の夫須美神を取り上げている。本宮・新宮と併せて熊野三山とする記述は永保3年(1083年)9月4日の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、これまでには三山共通の三所権現を祀る神社として成立していたと考えられる。また『中右記』の天仁2年(1109年)10月27日条の藤原宗忠らの参拝記録から、この頃までに現在の社地に遷祀されていたとされる。

那智一山の組織
那智一山の組織は平安時代末期に形成したと考えられるが当時の史料は残されていない。近世後期に編纂された『紀伊続風土記』などによれば、那智山には禰宜や神主などの神職は存在せず、那智山は隣接している如意輪堂(現・青岸渡寺)と神仏習合して一体化し、その全員が社僧という修験者達の霊場となっていた。中世に入り、熊野三山を管理する京都の熊野三山検校の下で那智一山の管理組織(那智執行・滝本執行・宿老・在庁にもとづく合議制度)が整備された。近世に入り社僧が東座と西座に分けられたが、両座にはそれぞれ東の長官、西の長官が置かれ、執行と呼ばれつつ一山を管理した。また両座の下には10人で構成する宿老をはじめ、12人の講誦、75人の衆徒、66人の滝衆、85人の行人、12人の如法道場役人と7人の穀屋(本願)などがいて組織を構成した。

『紀伊続風土記』によると、近世のある時期に東座執行を受け持ったのは那智最古の家柄という潮崎尊勝院で、山内でも最重要とされる飛滝権現を祀り、滝衆や行人を統轄し、近世のある時期に、西座の執行を西仙滝院が担当した後、米良実方院に替わったという。尊勝院・実方院および御師と呼ばれる坊・院は、中世・近世を通じ、全国各地の旦那(檀那)場からの参詣者を泊める宿坊を営んでいた。仁平元年(1151年)2月15日の『源義国寄進状写』に那智の御師・高坊の名が記載されている。この他にも御師として熊野別当家の一族もいた。

三山成立以降
『長秋記』長承3年(1134年)2月1日条によると、平安時代後期には三山とも天照大神を含む御子神の五所王子と眷属神の四所明神を加え、現在のような十二所権現を祀る形が整った。しかし那智は別格の滝宮を加えて十三所権現となっており、康暦元年(1379年)11月13日の『尼性周田地寄進状写』などに記録が残っている。

平安時代の末期には鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などが幾度も熊野三山に足を運び、大いに賑わっている。

建仁元年(1201年)10月19日には後鳥羽上皇が那智山に参詣し、その後建暦2年(1212年)に上皇から寄進された熊野新宮領・190石のうち12石が那智社に与えられた。

承久の乱では後鳥羽上皇らが敗れて熊野は有力な支持者を失ったが、代わって修験道の発達に伴い、三山の御師と先達による組織づくりが盛んとなった。貞応2年(1223年)11月19日には一山が焼失したが、御師らによって再建されている。

南北朝時代には、熊野の勢力を勧誘するために両朝から御師宛に護摩供料などの名目で寄進が行なわれ、貞和2年(1346年)8月18日には熊野三山検校・道昭准后が、那智山の兵部卿律師御房に駿河国北安東荘内を安堵した例などがある。

続く室町時代には各地の神領荘園からの収入が減少し、那智山権現でも年貢米が駿河国の長田・安東両荘および美作国勝田荘からのみになった。このため、有力御師・先達の活動が重要さを増し、社頭の修理なども熊野山伏や比丘尼、十穀聖などの勧進に頼るようになった。文明10年(1478年)に畿内への課役による棟別銭で那智山の造営を行なったが、弘治年間の十二所権現造営の際は、賦算札に貴庶を勧進結縁させている。15世紀後半以降には、山内の堂塔や社殿の修理のために勧進を行う本願所として、妙法山阿弥陀寺や浜ノ宮の補陀洛山寺をはじめ御前庵主、大禅院、滝庵主、那智阿弥、理性院といった本願所により造営・修造が担われるようになり、那智七本願または那智七穀屋などと称された。なお、穀屋はこの七本願を指すという見方もある。

天正9年(1581年)には堀内氏善が那智山への支配を強化した事に反発した社家で御師の廊ノ坊が武力決起し、逆に氏善が廊ノ坊を攻撃し、本殿などの社殿が焼失している。一方で那智山内の実報(実方)院は堀内氏に付いて那智一山は二分され、廊ノ坊側が敗れると同年6月3日に一族東学坊などの跡職は実報院に与えられたという。

近世以降
慶長6年(1601年)1月4日の『熊野那智山神領注文写』によると神領は633石余となっている。同年には紀州藩主浅野幸長によって那智山は市野々村と二河村(現・那智勝浦町)に300石を与えられた。寛政10年(1798年)大晦日に参拝した高遠藩の砲術家・坂本天山は、建造物が壮麗で香炉には火が絶えず、社人・社僧の数が多い事を『紀南遊嚢』に記している。

近世末期の那智大社には数多くの社僧坊舎があったが、明治時代になり神仏習合が廃されると、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、当社では如意輪堂は有名な西国三十三所の第一番札所であったため、ひとまず破却はしなかった。

1873年(明治6年)に県社に指定されると共に那智神社と称し、さらに熊野夫須美神社と改称した。翌1874年(明治7年)には如意輪堂が青岸渡寺として当社から独立した。

1921年(大正10年)に官幣中社に昇格して熊野那智神社と改称、最終的に1963年(昭和38年)に熊野那智大社と改称し、また別表神社として今日に至る。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E9%82%A3%E6%99%BA%E5%A4%A7%E7%A4%BE



熊野那智大社

那智の滝から歩いて向かう。

熊野那智大社 (1)
お土産物屋のある通りを進むと表示が。

熊野那智大社 (2)
あかん、また急な石段や。

熊野那智大社 (3)
入山心得。おっしゃる通り。

熊野那智大社 (6)
途中休憩しながらのぼり、鳥居前。

熊野那智大社 (7)

熊野那智大社 (8)

熊野那智大社 (9)

熊野那智大社 (11)

熊野那智大社 (19)

熊野那智大社 (13)

熊野那智大社 (10)

熊野那智大社 (17)

熊野那智大社 (18)

熊野那智大社 (20)

熊野那智大社御朱印帳
こちらの神社にはオリジナル御朱印帳があります。少し大きい。

熊野那智大社 (14)
こちらは隣のお寺ですね。

熊野那智大社 (15)
お寺から塔と瀧が見えます。

熊野那智大社 (16)
塔。

熊野那智大社 (22)
帰りも険しい道。

熊野那智大社 (23)
帰り道、二組の方に「あと何分で着きますか?」と聞かれました。みんなしんどいんやな。

熊野那智大社 (24)
帰りに熊野古道に寄ってみる。

熊野那智大社 (25)

熊野那智大社 (21)
これが熊野古道(一部)です。本格派の方は歩いて熊野詣でしてみてください。

この後、雨に降られて合羽を着て酷道168号線を北上。かつらぎ町へ向かうことに。ハードや。

飛瀧神社

飛瀧神社

和歌山県那智勝浦町那智山

飛瀧神社(ひろうじんじゃ)は、和歌山県那智勝浦町那智山にある神社。御祭神は大己貴神。熊野那智大社の別宮。那智滝自体が大己貴神が現れた御神体となっており、本殿は存在しない。拝殿もなく、直接滝を拝むこととなる。滝の飛沫に触れることによって、延命長寿の霊験があるという伝説がある。

毎年7月14日に扇祭(那智の火祭)が開かれる。また毎年7月9日と12月27日に御滝注連縄張替行事が行われる。

境内地及び那智滝は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部となっている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E7%80%A7%E7%A5%9E%E7%A4%BE



飛瀧神社

飛瀧神社 (2)
雨が降らないよう祈りながら到着。

飛瀧神社 (3)
団体客や。

飛瀧神社 (4)
開けた。

飛瀧神社 (5)
かっけえ。

飛瀧神社 (7)
300円払うと、瀧の近くまで行けるとのこと。写真は体によさそうな水。

飛瀧神社 (8)
5杯ぐらい飲んでみる。こないだの健康診断で肝機能障害で再検査と書かれていたので、治癒を祈願。

飛瀧神社 (10)
近くから見た瀧。流石那智の滝やで。

神倉神社

神倉神社

和歌山県新宮市神倉1丁目13-8

神倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)は和歌山県新宮市の神社。熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社。境内地は国の史跡「熊野三山」の一部、および世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。

磐座信仰の社

神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かみくらさん、かんのくらやま、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁は直ちに断崖絶壁になっている。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。

山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩が神体として祀られている[1]。この岩の根元を支える袈裟岩といわれる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている[1]。

神倉神社の創建年代は128年頃といわれているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて[2]、あめのいわたて[3])の山であるという[1][4]。このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている[1]。

歴史
熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり[5]、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された[4]。平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にもいく度かその名が登場する。『平家物語』巻10の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる[4]。

鎌倉時代の建長3年(1251年)2月14日には火災により焼失したが、執権の北条時頼より助成を与えられて再建された。中世の神倉神社は、神倉聖と称される社僧のほか、その下役の残位坊、妙心寺(妙心尼寺)・華厳院・宝積院・三学院の神倉本願四ヵ寺が運営にあたり(『紀伊続風土記』)、中の地蔵堂・参道・曼荼羅堂などの維持管理にあたった[4]。南北朝時代の動乱による荒廃の後はもっぱら妙心尼寺が勧進権を掌握した。享禄4年(1531年)付の古記録「神倉再造由緒」によると、神倉山の神社仏閣は持統天皇の時代に裸行上人により建立されたが、その後荒廃したため、延徳元年(1489年)に妙心尼寺の妙順尼が神倉神社の再興のための勧進を行い、さらに大永年間(1521年-1528年)から享禄4年まで弟子の祐珍尼らとともに諸国を巡って奉加を募り、これによって再興を成し遂げた(『妙心寺文書』)[6]。戦国時代から近世初期にかけても度々災害に見舞われているが、なかでも天正16年(1588年)には、豊臣秀長の木材奉行によって放火され、境内がことごとく焼失した。翌年には祐心尼のほか、金蔵坊祐信(当山派)および熊野新宮の楽浄坊行満(本山派)の2人の修験者の協力を得て西国9か国に勧進に赴いている[7]。

近世以降は、紀州徳川家や、新宮領主の浅野氏・水野氏の崇敬をあつめた。慶長7年(1602年)には浅野氏より社領として63石を与えられたほか、正保2年(1645年)には一年の祈祷料として、米3石6斗と燈明料米1石8斗が与えられた[8]との記録が見える。


拝殿
『紀伊続風土記』が伝えるところによると、近世の境内には社殿と並宮のほか、崖上に懸造の拝殿があり、大黒天を祀る御供所、末社として満山社、子安社、中の地蔵堂などがあったが、明治3年(1870年)の台風で倒壊し[8]、その後荒廃したため、1907年(明治40年)には熊野速玉大社に合祀された。しかし、1918年(大正7年)、岩下に祠を再建したのを手始めに、昭和期に社務所、鳥居などが再建された[1]。現在は社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外社の扱いである。朱印や御札などは熊野速玉大社の社務所で取り扱っている。御朱印には「熊野三山元宮」と記載されている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%80%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE


神倉神社
こちらの御朱印は熊野速玉大社の授与所でいただけます。

神倉神社 (1)
時間は17時前。神倉神社に到着。

神倉神社 (2)
ちょっと写真暗いですね。

神倉神社 (3)

神倉神社 (4)

神倉神社 (5)
鳥居前。石段が見えてきました。

神倉神社 (6)
自然丸出しの石段。険しい。

神倉神社 (7)
踊り場で休憩。

神倉神社 (8)
上り続ける。これ滑落したら死ぬんじゃね?

神倉神社 (9)
下を見る。あかん、死ねる。

神倉神社 (10)

神倉神社 (13)
ようやく上まで来た。

神倉神社 (14)

神倉神社 (15)
人が岩の上に。

神倉神社 (16)

神倉神社 (17)

神倉神社 (19)
この岩崩れて来たら死ぬな。

神倉神社 (18)
新宮の町を見下ろす。

のぼりの途中、小学生たちに追い抜かれていったのが悔しかったです。みんな元気すぎる。

新宮居酒屋 (2)
晩御飯はビジネスホテル前の居酒屋で。

新宮居酒屋 (3)

新宮居酒屋 (1)
クジラ盛り合わせ。和歌山と言えばクジラ漁、かな。

新宮駅
夕食後、コンビニを探してすこし歩く。新宮駅。

徐福公園
ライトアップされた徐福公園。徐福は、不老不死の薬を探して中国から来た仙人だそうです。

コンビニは結局見つからなかった。おとなしく部屋に帰った。

阿須賀神社

阿須賀神社

和歌山県新宮市阿須賀1丁目2−25

阿須賀神社(あすかじんじゃ)は和歌山県新宮市にある神社。熊野曼荼羅三十三ヶ所霊場 第23番。

由緒と歴史
阿須賀神社は、熊野川河口近くにある蓬莱山と呼ばれる小丘陵の南麓に鎮座する。古くは飛鳥社とも称された。蓬莱山は南北100メートル、東西50メートル、標高48メートルの椀を伏せたような山容で、神奈備の典型とも言うべき姿をしている[1]。熊野速玉大社伝の「新宮本社末社総目録」[2]に上御備・下御備の祭祀遺跡が描かれているように、古くから信仰の対象となっていたと見られる[1]。また、もともとは陸から離れた島であったともされる[3]。

熊野の地において熊野権現はまず神倉神社に降臨し、それから61年後に阿須賀神社北側にある石淵(いわぶち)谷[4]に勧請されて、その時に初めて結早玉家津美御子と称したと伝えられており、熊野権現の具体的な神名がはじめて現れた場所と見なされていたことが分かる(「熊野権現垂迹縁起」)[5]。その他、境内からは弥生時代の遺跡が発掘されており(後述)、熊野における歴史と信仰の最も古い層に関わる地として重要である。


阿須賀王子跡碑
社伝によれば孝昭天皇の代の創建と伝えられる[5]。平安時代に熊野権現の本地が確立してからは、大威徳明王を本地仏として祀った。平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、阿須賀神社に参詣することが常であったと見られ、『中右記』の天仁2年(1109年)10月27日条に「参阿須賀王子奉幣」と記され、熊野九十九王子の王子社(阿須賀王子)としての扱いを受けていたことが分かる。また、『平家物語』巻十には平維盛が新宮で「明日社ふし拝み」と記され、阿須賀神社への参拝が一般的なことがらであったことが認められる。

『紀伊続風土記』によれば、近世の阿須賀神社には、並宮・拝殿・御供所・鐘楼堂・四脚門・鳥居・社僧行所などがあったという。1907年(明治40年)、熊野速玉大社の末社であった八咫烏社(建角美命)・宮戸社(黄泉津道守命)などを合祀した。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%88%E8%B3%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE



阿須賀神社

阿須賀神社 (1)

阿須賀神社 (2)

阿須賀神社 (3)

阿須賀神社 (4)

阿須賀神社 (5)

阿須賀神社 (6)

阿須賀神社 (7)

阿須賀神社 (8)
境内けっこう広いですね。

御朱印は授与所でいただきました。丁寧に対応いただきありがとうございました。

熊野速玉神社

熊野速玉神社

和歌山県新宮市新宮1

熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、和歌山県新宮市にある神社。熊野三山の一つ。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。

境内地は国の史跡「熊野三山」の一部[1]。2002年(平成14年)12月19日、熊野三山が史跡「熊野参詣道」から分離・名称変更された際に、御船島を含む熊野速玉大社境内が追加指定された[2]。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部[3]。

歴史

神代の頃に、神倉山の磐座であるゴトビキ岩に熊野速玉大神と熊野夫須美大神が降り立ち、そこで祀られることとなった。

熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる[4]。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされている。

しかし、社伝によると景行天皇58年に現在地に遷座し、速玉之男神の名から社名をとったという。もともと祀られていた所である神倉山は神倉神社となり、また元宮と呼ばれ、当社は新宮と呼ばれる。

初めは二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀っていたが、平安時代の初めには現在のように十二の社殿が建てられ、神仏習合も進んで熊野十二所権現と呼ばれ、やがて式内社(大)に列せられた。

また、穂積忍麻呂が初めて禰宜に任じられてからは、熊野三党のひとつ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。

平安時代の末期には鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などが幾度も熊野三山に足を運び、大いに賑わっている。

1871年(明治4年)、熊野速玉神社として県社に列格するが、1883年(明治16年)、打ち上げ花火が原因で社殿が全焼してしまった。

1915年(大正4年)、官幣大社に昇格する。1967年(昭和42年)に社殿が再建される。

2004年(平成16年)7月1日、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E9%80%9F%E7%8E%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE



熊野速玉

熊野速玉 (1)
熊野本宮大社、新宮市の中心地にありますね。

熊野速玉 (2)

熊野速玉 (3)

熊野速玉 (4)

熊野速玉 (5)

熊野速玉 (6)
なんかコンサートがあるとかでパイプいすが。

熊野速玉 (7)
ステージがありますね。

熊野速玉 (8)

熊野速玉 (9)
パイプいすに場所をとられて、人がぎゅっと集まってきてますね。

熊野速玉御朱印帳
こちらの神社にはオリジナル御朱印帳があります。

参拝後、新宮の駅前まで宿を探しに行く。ビジネスホテルに空室あり。よかった。

まだ4時前だったので、引き続き街を散策。神社巡りに向かう。