2014年04月

度津神社

度津神社

新潟県佐渡市羽茂飯岡550−4

度津神社(わたつじんじゃ)は、新潟県佐渡市羽茂飯岡にある神社。式内社、佐渡国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。

歴史
往古の羽茂川洪水により社殿、古文書から別当寺にいたるまでことごとく流失したため、創建の由緒は不詳である。『佐渡國誌』[4]には、寛永18年(1641年)1月21日付けの『飯岡村八幡宮證文之寫』が所収されているが、そこには「殊ひたの内匠立申候両社 仲哀天皇之御宇神祇之書物于今在社に御座候、・・・」との記述がある。このとき本当に『神祇之書物』が存在したのだとすれば、その内容によっては当神社が仲哀天皇の御宇である仲哀天皇元年-同9年頃、またはそれ以前に創建された可能性が出てくるが、縁起などが流失した洪水は寛永18年以前に起こったと伝えられている。

延長5年(927年)に『延喜式神名帳』により式内社、小社へ列格された。『中世諸国一宮制の基礎的研究』[6]では、『延喜式神名帳』における佐渡国の式内社記載順によって一宮と呼ばれるようになっている、と述べている。また『佐渡志』[2]には「延喜式載スル所ノ九社ノ第一ニシテ、・・・」との記述がある。

『朝野群載 巻6』には、神事に過穢があったことにより祟り給うたので、度津神社に使者を遣わし中祓いを科して祓い清めるべしとの承暦4年(1080年)6月10日付けの神祇官奏上が記載されている。

『佐渡國寺社帳』によれば、往古の社地は東にあり、文明2年(1470年)羽茂川の洪水により社殿・古文書等ことごとく流失したので[7]、同 4年(1472年)に本間氏が再建立したのだと言う。『佐渡志』では、古の祠は正和中に改修され、その後の文禄2年癸丑(1593年)6月の水災により社壇が流されたので同じ村の八幡宮に合祀した、さらにその後、旧地に祠を作ったが、なお八幡宮を相殿に置いたと述べている。これらを受け『佐渡國誌』[4]では、文禄2年は癸巳であって癸丑ではなく、『佐渡國寺社帳』にある文明2年は癸でも丑でもない、また文明から文禄までの120年間に癸丑であったのは明応2年(1493年)と天文2年(1533年)で、いずれも△△2年なので特定できないが、文禄2年には有名な洪水があったので癸丑は癸巳の誤りと見て、文明2年と文禄2年の両年に水災があったと見るのが穏当ではないか、と考察している。旧社地については、かつて海岸寄りに鎮座していたのが、後に現在地に遷座したとの説、『佐渡一ノ宮度津神社参拝の栞』で考察している現社地より川下の別当屋敷の地名が残るあたりとの説がある。このような状況から『中世諸国一宮制の基礎的研究』[6]では、「旧社地については諸説ありはっきりしない」と述べている。

『飯岡村八幡宮證文之寫』の記述から寛永18年(1641年)には当神社が八幡宮に合祀されている様子が分かる。『飯岡村八幡宮證文之寫』の内容から、この頃まで八幡宮と度津神社が混在して明確に分かれておらず、さらに文意を考えれば八幡宮が一宮であるかのように見え、おそらく地頭等を含め皆が八幡宮を信仰して社料も多く附けられていたのだろう、と『佐渡國誌』[4]では推察している。

神道家の橘三喜は延宝3年(1675年)から23年かけて全国の一宮を参拝し、その記録を『諸国一宮巡詣記』全13巻[3]として著したが、当神社には延宝6年(1678年)に参詣している。前述のように、現在の当神社祭神の杜撰には橘三喜が係わっているのではないか、と言われている。

『中世諸国一宮制の基礎的研究』[6]によれば、文化13年(1816年)に度津神社別当神宮寺と一宮神社別当慶当寺の間に一宮論争が起こったのだという。同書では、その結果として度津神社別当神宮寺が勝訴し、以後は佐渡国一宮といえば度津神社と言われるようになったのだ、と述べている。

当神社の東前方には前述のように度津神社別当神宮寺があったが、明治の神仏分離令に際し帰農している。明治4年(1871年)5月14日には国幣小社に列せられたが、第2次世界大戦の終戦に伴い旧社格は廃止され、その後、当神社は神社本庁が包括する別表神社となっている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A6%E6%B4%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE



度津神社

満を持して佐渡島へ。ついに来ましたね。

フェリー

フェリーときわ丸。すごい新しい。

新潟港

新潟港を離れる。ミャアミャア鳴いてるのはウミネコ。

佐渡牛乳

佐渡牛乳。コーヒー味もあります。

佐渡の山

佐渡上陸!!雪残ってんな!!

回転すし

昼食は回転すし弁慶へ。美味い!!ネタも米もでかい!!食べごたえ抜群です。100円回転すしでは味わえないですな。

度津神社 (2)

満腹状態でレンタカーに乗り込み度津神社到着。両津港からはちょっと遠いですね。結構走りました。

度津神社 (3)

度津神社 (4)

度津神社 (6)

度津神社 (7)

度津神社 (5)

ちょっと遠いですけど、人里離れた感があって、雰囲気がいいですね。公園があって親子連れが遊んでたりするので、全く人の気配がないわけではないですけど。参拝客も僕たちの他にも何組かいらっしゃいました。

宿根木

宿根木 (2)

参拝後、宿根木へ観光へ。世捨て小路。葬列はここを通って村とお別れするのだそうで。

世捨て小路

風情のある街並み。

白山神社

白山神社 (2)

白山神社がありました。参拝。

宿根木 (3)

変な祭り

ちとちんとん。

アメフラシ

港で見つけたアメフラシ。左上にいるのわかります?けっこう大きい。初めて見ました。

こういう田舎の海のある町で、新垣結衣みたいな女の幼馴染がいたらいいな~っていう妄想をしていました。

学校帰りに海の中観察して『見て!アメフラシ!』とか言ってほしい。

そして違う高校に進学して疎遠になっていくってところまで妄想して、車にはねられそうになって現実に帰る。危なく死ぬところでした。

ガッキー

ああああああああああああああかわいいよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!

夕食 (3)

夕食。独り旅が多いので、こういうちゃんとした夕食は貴重。しっかりした宿に泊まるのもいいですね。

佐渡金山

翌日、ひとまずスカイラインへドライブ。佐渡金山。

スカイライン

景色。

トキ (3)

トキセンターへ。昔は函館から沖縄まで生息していたのに、いなくなってしまうものなんですねえ。みんな羽毛布団にされてしまった。

日本タンポポ

なんか大きいタンポポが生えてたので観察。頭花の下の総苞片が反り返っていなければニホンタンポポ、反り返っていればセイヨウタンポポ。これはおそらくニホンタンポポですね。

長三郎 (2)

昼食は長三郎で。

長三郎

B級グルメブリカツ丼。美味い!

そして新幹線で帰って今にいたる。佐渡はやっぱり遠かったな~。行けてよかった。

小野照崎神社

小野照崎神社

東京都台東区下谷2丁目13−14

小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)は、東京都台東区下谷二丁目にある神社。

由緒
小野篁を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。852年(仁寿2年)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。寛永年間(1624年-1643年)、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、「江戸二十五天神」の一つに数えられた。樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%85%A7%E5%B4%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE



小野照崎神社

小野照崎

小野照崎 (4)

小野照崎 (5)

小野照崎 (6)

小野照崎 (7)
富士塚。

小野照崎 (9)

小野照崎 (10)

ネコ。二匹いました。

三島神社

三島神社

東京都台東区下谷3丁目7−5

三島神社(みしまじんじゃ)は、東京都台東区下谷三丁目にある神社。本社は伊予国一宮で日本総鎮守と称される愛媛県今治市(大三島)の大山祇神社である。
由緒
弘安4年(1281年)、河野通有は元寇に際し、氏神である三島大明神(大山祇神社)に戦勝を祈願して出陣し、三島大明神の神使である白鷺の導きにより華々しい武勲を挙げたが、その帰陣にあたり、夢の中で武蔵国豊島郡に三島大明神を勧請せよというお告げを受け、上野山内の河野氏の館に奉斎したのが始まりと伝えられる。

慶安3年(1650年)、徳川家光より社地移転を命じられ、金杉村(現在の台東区根岸)に遷座した。さらに宝永7年(1710年)、社地が幕府の御用地となったため、浅草小揚町(現在の台東区寿)に遷された(寿四丁目の本社三島神社)。しかし、氏神様が遠くて困るとして金杉村字金杉町の火除稲荷神社社地に分霊を勧請した。これが金杉町(下谷)の三島神社である。現在に至るまで当社の歴代宮司は河野通有の子孫が務めている。

なお、同じく金杉村根岸の氏子が本社三島神社より分霊を勧請し、熊野神社に合祀したのが根岸一丁目の元三島神社である。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA)



三島神社

三島神社

三島神社 (2)

三島神社 (3)

三島神社 (4)

女性の神主さん、大変親切な方でした。ありがとうございました。

胡録神社

胡録神社

東京都荒川区南千住8丁目5−6

胡録神社(ころくじんじゃ)は東京都荒川区の神社。

概要
1561年(永禄4年)に創建された。上杉謙信の家臣だった高田嘉左衛門一党が、この汐入の地で土着した際に祀った祠が起源である。

かつては神仏習合による大六天を祀る神社であったが、明治時代の神仏分離政策により、当時の汐入で生産が盛んだった胡粉の「胡」と大六天の「六」を「録」にした「胡録神社」に改称された[1]。

昭和末期より、汐入地区の都市再開発が始まり、神社周辺は大きく様変わりした。胡録神社も若干位置を移動した[2]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%8C%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%8D%92%E5%B7%9D%E5%8C%BA)



胡録神社

マンションが立ち並ぶ住宅街に鎮座。

胡録神社 (2)

胡録神社 (3)

胡録神社 (4)

胡録神社 (5)

胡録神社 (6)

整然とした住宅街に鎮座する神社。趣があっていいですね。

大井競馬 (3)

この日は大井競馬場へ。羽田杯ですよ!よく知らないけど。

大井競馬 (4)

大井競馬

上手く撮れない!負けたし!

旗岡八幡神社

旗岡八幡神社

東京都品川区旗の台3丁目6−12

旗岡八幡神社(はたがおかはちまんじんじゃ)または旗ヶ岡八幡神社は、東京都品川区旗の台にある神社。

由緒

長元3年(1030年)に源頼信が当時下総国(現在の千葉県)において発生していた平忠常の乱を平定するために、下総に行く途中この地に宿営し霊威を感得して、この地に八幡大神を奉り戦勝を祈願したのが発祥とされる[2]。当時この地に陣を張り、源氏の白旗をなびかせて武威を大いに誇ったという。そのことが現地名の「旗の台」や「旗岡」の名の由来になっているとされる[注釈 1]。その後、鎌倉時代に入り、当地の領主・荏原義宗(源義家の末裔と言われている[3])によって社殿等が建立され、源氏の守護神のみならず地域の鎮守神とした[4]。また荏原義宗は日蓮宗に篤く帰依し、息子を日蓮の高弟・日朗の弟子とさせた。息子は後に朗慶上人となり、荏原氏の館跡に法蓮寺を開山した。この寺院は長く隣接する旗岡八幡神社の別当寺となった。明治時代に別当は廃止されたが、現在でも当神社に隣接してある。また、旗岡八幡神社の前の道は鎌倉道のひとつで古来より鎌倉へと通じる道として知られていた[注釈 2]。

その後の時代になっても人々からの信仰は厚く、江戸時代には2代将軍・徳川秀忠に祈願所とされたほか、特に弓術者から篤い信仰を得て、毎年2月15日には近郊の各地から武士が集まって境内で弓術の競射が行われるようになり、有名であった。試合後は一同に甘酒が振舞われたに由来して、現在でも2月になると『甘酒祭』が当神社内でとりおこなわれている。また江戸時代には『中延八幡宮』とも呼ばれ、『江戸名所図会』にもその名で描かれている[5]。

その後、第二次世界大戦による戦災で拝殿等が焼失。(絵馬堂のみ残存)現在の社殿は昭和39年(1964年)に再建されたものである。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE



旗岡八幡神社

東急大井町線荏原町から歩いてすぐ。

旗岡八幡神社

旗岡八幡神社 (2)

旗岡八幡神社 (3)

工事中でした。残念。この後、友人とラウンドワンで遊ぶ。ボウリングは全然上手くならない。ダーツも全然上達しない。

つけめん玉

友人夫婦とつけめん玉で夕食。久しぶりにつけ麺食べたけど美味いなあ。家まで送っていただいてありがとうございました。

上神明天祖神社

上神明天祖神社

東京都品川区二葉4−4−12

蛇窪神社(へびくぼじんじゃ)は、東京都品川区二葉にある神社。登記上の宗教法人名称は天祖神社(てんそじんじゃ)。2019年(令和元年)5月1日より別称の蛇窪神社を通称表記へ格上げしている。

由緒
創建は鎌倉時代の文永8年(1271年)に北条重時の五男・時千代が、仏門に入り法圓上人となり、大森(現在の大田区)に厳正寺を開き、その家臣が蛇窪(現在の当地付近)に住み着いた[3][2][注釈 1]。後の元亨2年(1322年)に厳正寺の僧侶が池の竜神へ雨乞いの祈願したところ、慈雨が降ってきたのでそれに感激した時千代の旧臣らが当地にも神社を勧進し祀ったというのが始まりであるという[3][2] [注釈 1]。 当神社の旧社名は神明社でしたが、その後、村社に昇格して「天祖神社」に改名されました[3]。 令和元年5月1日より、御大典を記念し、また、地域の発展を祈念して、神社名の問い合わせの多い別称「蛇窪神社」を通称表記に格上げすることになりました[3]。

社殿等は第二次世界大戦による戦災で焼失し現在のは1961年(昭和36年)に再建されたもの。また荏原七福神のひとつとして弁財天を祀っている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%A5%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE



上神明天祖神社

蛇窪大明神

蛇窪大明神の御朱印もいただけます。弁財天の御朱印もいただけるそうです。

ちなみにこちらのピンクの御朱印、4月限定だそうです!!カワイイ!!

上神明天祖神社

上神明天祖神社 (2)

上神明天祖神社 (3)

上神明天祖神社 (5)

上神明天祖神社 (4)

季節限定御朱印は惹かれるものがありますね。「神社の御朱印と、弁財天の御朱印と、蛇窪大明神(通常版・季節限定版)がありますが、どういたしますか?」と言われると、一瞬迷ってしまいました。巫女さんが美人だったので余計に戸惑った。

下神明天祖神社

下神明天祖神社

東京都品川区二葉1丁目3−24

下神明天祖神社(しもしんめいてんそじんじゃ)は、東京都品川区二葉にある神社。登記上の宗教法人名称は天祖神社(てんそじんじゃ)。

由緒
創建に関しては明らかになっていないが、文献では江戸幕府六代将軍・徳川家宣の時代以前から鎮座していたという[注釈 1]。

その後、蛇窪村(江戸時代の当地の地名)が上蛇窪村と下蛇窪村に分かれた正保年間(1644年から1647年)に、天祖神社が下神明天祖神社と近隣の上神明天祖神社(蛇窪神社)とに分かれたとされているのが有力な説であるが、その時期などに関しても確実な記録がない。

また、最寄駅である東急大井町線下神明駅は、当神社が名の由来となっている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%A5%9E%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%A5%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE



下神明天祖神社

大井町は初めてですね。大井町から歩いて向かう。ちょっと歩く。

下神明天祖神社

下神明天祖神社 (2)

下神明天祖神社 (3)

下神明天祖神社 (4)

下神明天祖神社 (5)

この後上神明天祖神社へ歩いて向かうが、さらに迷う。小さい地図だと分かりにくいなあ。いい運動になった。

柳森神社

柳森神社

東京都千代田区神田須田町2丁目25

柳森神社(やなぎもりじんじゃ)は、東京都千代田区秋葉原にある神社。通称は倉稲魂大神。

室町時代に、太田道灌が江戸城東北方面の鬼門除けとして京都の伏見稲荷大社を勧請して創建したとされ[1]、椙森神社・烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれた。境内の福寿神祠は徳川綱吉の生母桂昌院が江戸城内に建立したといわれている。

歴史
長禄2年(1458年) - 太田道灌が、江戸城東北方面の鬼門除けとして伏見稲荷大社から祭神の宇迦之御魂を勧請して創建。
万治2年(1659年) - 太田道灌による江戸城築堤の際、対岸に当たる現在地に柳とともに移転。
大正12年(1923年)9月 - 関東大震災において元禄期創建の社殿などが全焼(昭和5年(1930年)に復興)。
大東亜戦争の空襲にて小破、一部残存。
昭和29年(1954年) - 鎮座500年記念祭が行われると同時に改修完了。神楽殿が完成。
昭和59年(1984年) - 二度の放火により神楽殿、拝殿、本殿などが半焼。昭和61年(1986年)の春、修復が完了、現在に至る[3]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%A3%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE



柳森神社

秋葉原に鎮座。御朱印はセルフサービスで。ハンコを押すのは難しいですね。でも神職不在でも御朱印を戴けるのはありがたいかも。

柳森神社 (2)

柳森神社 (4)

柳森神社 (5)

柳森神社 (6)

柳森神社 (7)

ベンチで人が数人休まれてました。花の写真を撮っている方もいらっしゃいました。

柳森神社 (8)

柳森神社 (3)

ネコ。人に慣れてますね。

松戸神社

松戸神社

千葉県松戸市松戸1457

松戸神社(まつどじんじゃ)は、千葉県松戸市松戸1457番地にある神社である。寛永3年(1626年)の創建とされ、松戸市の総鎮守とされている。神紋は左三つ巴。旧社格は村社。

由緒 来歴

坂川に架かる潜龍橋
社殿は寛永3年(1626年)の創建[2]とされ、神仏習合思想の影響で『御嶽大権現』と称していた[3]。

景行天皇40年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が武蔵国へ向かう際に、当地に陣営を設けて従将の吉備武彦(きびたけひこ)連と大伴武日(おおとものたけひ)連の方々と待ち合わせをしたため、待つ郷(まつさと)、待土(まつど)と呼ばれ、『松戸』の地名が生まれたと云われている[2]。

慶長14年(1609年)、水戸城に水戸徳川家が封ぜられると、江戸と水戸とを往来する水戸街道が整備され、松戸宿が宿場町として賑わった。境内地の近隣には陣屋も置かれていたため、水戸徳川家より篤い崇拝を受けた。この地を徳川光圀が鷹狩に訪れた際、御神木である大銀杏に止まっている白鳥へ鷹を放とうとするも鷹は微動だにしない。憤慨した光圀が矢を放とうとしたところ、弓矢が中央から折れてしまい、光圀は折れた弓矢を奉納して神前に鎮謝した[4]とする伝承が残る。

水戸徳川家所縁の品々も多数奉納されたと伝わるが、元文4年(1739年)の松戸宿の大火にて社殿及び奉納品も焼失する[2]。

1882年(明治15年)、社号を『松戸神社』へと改称して有栖川宮幟仁親王より社号の書を授かる[5]。2006年(平成18年)には三笠宮崇仁親王が参拝し、高野槙を植樹した。

2009年(平成21年)12月、宇宙飛行士の山崎直子が宇宙飛行の安全祈願のために参拝した。2010年(平成22年)4月5日、前年10月18日に行われた『松戸神社神幸祭』のためにつくられた『四神お守り』を携えてスペースシャトル『ディスカバリー号』に搭乗し、ケネディ宇宙センターから国際宇宙ステーションへ飛び立った。帰還後の同年5月に松戸を訪れ、供に宇宙へ行った『四神お守り』を同神社へ返納し帰還パレードへ参加している。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%88%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE



松戸神社

初松戸市!!

松戸神社 (2)

松戸神社 (3)

松戸神社 (4)

松戸神社
松戸神社 (5)

松戸神社 (6)

松戸神社 (7)

千葉の神社も行かないとな~。案外ウチからは遠くないし。

白幡天神社

白幡天神社

千葉県市川市菅野1丁目15−2

白幡天神社(しらはたてんじんしゃ、しらはたてんじんじゃ)は千葉県市川市菅野にある神社。

歴史
1180年(治承4年)、源頼朝が安房国に旗揚げしたとき、菅野の地に白旗を揚げたことから白幡宮と名付けられたと伝えられる[1]。その後、1584年(天正12年)正親町天皇の代に本殿再建の記録がある[2]。1871年(明治4年)に菅原道真を合祀してから、社名に「天」の字が加えられ、白幡天神社と呼ばれている[1][3]。現在の本殿は、1880年(明治13年)に造営され、拝殿・幣殿は1961年(昭和36年)に造営された[2]。(なお、太田道灌が社殿を造営したとの説もある[4]。)

祭神は、武内宿禰、菅原道真である[2]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B9%A1%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE



白幡天神社

白幡天神社 (2)

白幡天神社 (3)

白幡天神社 (4)

天満宮おなじみ、受験生の絵馬。でもここはあんまり悲痛な感じはない。武内宿禰が主祭神だからかな。

白幡天神社

白幡天神社 (5)

白幡天神社 (6)

松戸神社 (8)

松戸神社 (9)

ネコ。