2014年03月

一之宮貫前神社

一之宮貫前神社

群馬県富岡市一ノ宮1535

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)は、群馬県富岡市一ノ宮にある神社。式内社(名神大社)、上野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

概要
群馬県南西部、鏑川左岸の河岸段丘上に鎮座し、信州街道に面する。当社は物部君(毛野氏同族)が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。

境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。社殿は江戸時代に第3代将軍徳川家光・第5代綱吉により整えられ、本殿・拝殿・楼門等が重要文化財に指定されている。また、鹿占習俗(国選択・県指定無形民俗文化財)を始めとした多くの特殊神事を行っている。

創建
社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部君姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。

一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(535年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年)[注 2]3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている[2]。

概史
現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格廃止に伴い改称したものであり、六国史をはじめとする古書には、「抜鉾神社」(ぬきほこ-)と「貫前神社」(ぬきさき-)の2つの名で記される(詳細は後述)。この2社が現神社の前身であるとすると、最初に記録に登場するのは大同元年(806年)、『新鈔格勅符抄』の神封部にある「上野抜鉾神 二戸」の記述である。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』に貫前神社が名神大に列格されている。

宇多天皇の代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、当社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている[注 3]。

長元3年-4年(1030年-1031年)に成立したとされる『上野国交替実録帳』には「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあり、当時既に神階が正一位に達していたと思われる[注 4]。

『本朝続文粋』の記述によれば、康和2年(1100年)4月に上野国目代平周真が降雨の祈願を行った時の奉献の文を国司上野介藤原敦基が執筆しており、当社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が12世紀初頭には確立したと考えられる[3]。

中世において、当社は源頼義・義家父子を始めとする武家の崇敬を集め、室町時代末期に越後上杉・相模後北条・甲斐武田の各氏に支配された際も庇護を受け、特に武田氏は譜代家老の原昌胤が取次を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる[3]。

江戸時代には徳川家の庇護を受け、現在の社殿が整えられた。江戸当時は「抜鉾神社」が一般名称であった。

明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に指定され、延喜式での表記に倣い「貫前神社」と改称した。戦後は神社本庁が包括する別表神社となっている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%8B%E5%AE%AE%E8%B2%AB%E5%89%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE


貫先

遠いねえグンマー

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参道が下りという珍しい形。

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竜王宮

竜王宮

高知県高知市浦戸

竜王宮

高知大神宮 (9)

桂浜!!初めて来た!!

桂浜

桂浜 (2)

桂浜 (6)

きれいな海!!

桂浜 (4)
竜馬像!!でかい!!

竜宮宮 (2)
散策していると神社がありました。

竜宮宮 (3)

竜宮宮 (4)
御朱印、お守り等授与していました。晴れた休日は出張授与所がであるようですね。ラッキー。

かりんとうまんじゅう (2)
土佐闘犬センター限定、かりんとう饅頭。美味いです。オススメ。

イケメン
土佐の有名人がイケメンに…岡田以蔵。。人斬り以蔵が泣くぞ。

はりまや橋
がっかり名所はりまや橋。悪くはないと思うが…規模が小さいからか。

夕食 (3)
夕食。カツオのたたき二度目。

九平治
宿にて飲みなおし。萬乗醸造の醸し人九平次!!買ってきてくれた友人に感謝!!

宮崎あおい
宮崎あおいかわいい!!

高知城 (2)
翌日、極度の体調不良状態で高知城へ。日曜市の匂いで吐きそうになる。

山内一豊

山内一豊公。信長の野望だとそれなりのステータス。可もなく不可もなく。嫁さんの方が著名ですな。

板垣退助
板垣退助公。板垣死すとも自由は死せず。

カツカレー
お昼は海のレストランでカツカレー。美味い!!二日酔いでカレーをチョイスした自分をほめたい。

帰宅したら22時半でした。新幹線はやっぱり時間かかるなあ。自由席座れてよかった。。

高知大神宮

高知大神宮

高知県高知市帯屋町2丁目7−2

高知大神宮 (1)

ついに高知県に進出。かつお、よさこい、坂本竜馬。

高知大神宮 (2)

高知大神宮 (3)

高知大神宮 (4)
こちらの神社、鶏が多数生息しています。

高知大神宮 (5)
摂社のよさこい稲荷神社。

高知大神宮 (8)
狛犬のポジションに鶏が。

高知大神宮 (7)

高知大神宮 (6)

ひろめ市場
昼食はひろめ市場で。混みすぎ。

カツオ炙り光景 (2)
カツオが炙られるの図。カツオ~!!

ひろめ市場昼食 (2)
昼食。炙りたては生臭さもなく美味!!

広尾稲荷神社

広尾稲荷神社

東京都港区南麻布4丁目5−61

廣尾稲荷神社(ひろおいなりじんじゃ)は、東京都港区南麻布にある稲荷神社である。祭神は倉稲魂神、麻布御花畠の富士見御殿の鎮守であった。御殿は元三枝摂津守屋敷であり、稲荷は其の頃からあったものという[1]。

概要
1596年 - 1615年(慶長)年間、将軍徳川秀忠が鷹狩りの際、この地に休息のため立寄ったと伝えられる。1698年(元禄11年)3月28日、徳川将軍家の別荘「富士見御殿」の落成とともに勧請された。1909年(明治42年)2月22日、廣尾稲荷と改称されたが、麻布宮村の千歳寺が別当であったため、千蔵寺稲荷とも呼ばれていた。社殿は木造神明造である。1845年(弘化2年)、拝殿が青山火事と呼ばれる火災により焼失したが、その後、再建され今日に至っている。関東大震災後の1925年(大正14年)、本殿と幣殿が建造された。1940年(昭和15年)、紀元2600年記念事業として、氏子、崇敬者の寄進により、境内整備が行われ、このときに、三基の庚申塔を社殿裏側道路に面した現在地に移転した。

総本社は、伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)である。御神体は木造翁の立像で、商売繁昌、五穀豊穣、火防守護の神として信仰を聚めている。拝殿天井には龍が描かれており、これは日本洋画家の先駆、高橋由一の日本画最後の作で、港区指定文化財となっている[1]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E5%B0%BE%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE



廣尾稲荷神社

広尾稲荷神社 (3)

広尾稲荷神社 (2)

広尾稲荷神社

荻生徂徠墓

道中にあった荻生徂徠墓の案内。荻生徂徠と言えば、赤穂浪士たちに同情的な意見が集まり、無罪とする意見が出る中、義士切腹論を主張した順法意識の高いお方ですね。

高木や

お昼ご飯は高田馬場の高木や。誰もつれなかったので孤独なランチ。独りで瓶ビール一本は苦しい。

白金氷川神社

白金氷川神社

東京都港区白金二丁目1番7号

氷川神社(ひかわじんじゃ)は、東京都港区白金二丁目にある神社。同区内赤坂にある赤坂氷川神社・元麻布にある麻布氷川神社と区別するため白金氷川神社とも称される。東京の港区では最古の神社である[1]。

由緒
白鳳時代に創建されたと伝えられている[1]。

江戸時代中期の明和9年(1772年)におきた明和の大火により焼亡[1]。江戸後期に社殿は再建された。しかし、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)空襲によって再度焼失した[1]。現在の社殿は昭和33年(1958年)に竣工したものである[1]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B8%AF%E5%8C%BA%E7%99%BD%E9%87%91)



白金氷川神社

白金氷川神社

白金氷川神社 (2)

白金氷川神社 (3)

宮司さんと目があった瞬間「御朱印ですか?」と素早い反応。

やっぱり御朱印希望の人が多いんですかねえ。

春日神社

春日神社

東京都港区三田2丁目13−9

由緒
 天徳二年(958年)武蔵国国司藤原正房卿任国の折、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神なる大和国春日社第三殿に祀る天児屋根命の御神霊を勧請鎮座。
 当時、武蔵国荏原三田邑にあって土地の人びとより大いに崇敬され、その後建仁3年(1203年)仏教の隆盛に伴い、当社にも十一面観音(弘法大師作)の尊像を安置、神仏相まって繁栄し神徳四辺に輝き渡ったと伝える。天文年間(1533-55年)荏原目黒三田より、港区三田高台の今の地に遷座する。上野の寛永寺が建立されてより、東叡山末妙禅院が別当となり、三笠山神宮司と称し僧侶がこれを司ることになった。代々天台宗を継承し、神仏ともにますます繁栄し、ことに江戸府内唯一の春日社として、代々徳川将軍の尊崇厚く、江戸城登城の諸大名も崇敬深く、9月9日の例祭は重陽の節句として、たいせつな儀式として春日社も大いに賑わい、大名等も白木の三宝に熨斗と菊花一枝を添えて奉献、終えて直会に菊酒を汲む神事が執行され、老若男女の参拝の多く、江戸名物の一つとして、徳川末期まで盛んであったという。当代、戦前の建物はすべて欅造りで、彫刻のみごとなことはその道の範といわれていたが、惜しくも戦禍により焼失。昭和34年9月、本殿・幣殿・拝殿を建築、末社稲荷社・鳥居・社務所増築を完了して戦後復興事業を成し終える。平成5年三田通り拡幅にともない社務所を新築、平成7年境内整備を終え平成14年11月狛犬を建立、現在に至る。

以上ホームページより。 http://phoresto.net/shrine/mitakasuga/



春日神社

春日神社

春日神社 (3)

春日神社 (4)

春日神社 (5)

春日神社 (2)

慶応

慶応の前を通る。見上げる。

元神明宮天祖神社

元神明宮天祖神社

東京都港区三田一丁目4-74

元神明宮(もとしんめいぐう)は、東京都港区三田一丁目に鎮座する神社である。

由緒
社伝によると、寛弘2年(1005年)に一条天皇の勅命により創建され、渡辺綱の産土神であったことから、多くの武人に崇敬されたという。また、江戸時代に徳川将軍家の命により神体や神宝が飯倉神明(現芝大神宮)に移されることになったが、氏子・崇敬者の熱意により境内に神体を隠し留め、これを昼夜警護したとも伝えられ、「元神明宮」と称して、藩邸が隣接した有馬氏を始め、広く衆庶の崇敬を集めたという。大正の関東大震災や昭和の東京大空襲等の災厄から氏子・崇敬者を守ったとされたことから、厄除けの神としても崇敬を受け、平成17年(2005年)9月には、「御鎮座壱千年」の記念事業を行った。

相殿の水天宮は、文政元年(1818年)有馬家藩邸の邸内社として、筑後久留米の水天宮から分祀されたもので、安産の神、水の神として崇拝されて来たが、明治元年(1868年)に有馬邸が青山に移転するに際して、その分霊を相殿として奉斎することになった(ちなみに、青山の有馬邸内社の水天宮は、更に日本橋蛎殻町に遷座され、現水天宮となった)。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A5%9E%E6%98%8E%E5%AE%AE



元神明宮

元神明宮

元神明宮 (2)

元神明宮 (3)

元神明宮 (4)

元神明宮 (5)

元神明宮 (6)

元神明宮 (7)

元神明宮 (8)

コンクリの塊みたいな社殿ですな。流石港区三田。

東京タワー

赤羽橋なので東京タワー。「東京タワーだってあなたと見る通天閣にはかなわへんよ!!」

ウチからはスカイツリーのが近いですが。

住吉神社

住吉神社

東京都中央区佃1丁目1−14

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、日本の東京都中央区佃にある神社である。旧社格は郷社[2]。

由緒
※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦。丸括弧内は西暦で、1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦。
天正年間(1573- 1592年)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃)にある住吉神社(改称の経緯:田蓑神社→田蓑姫神社→住吉神社→田蓑神社)に参詣した際、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の陣の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。

天正18年8月1日(1590年8月30日)、徳川家康が関東下降の際、先述の佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保3年6月29日(1646年8月10日)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。


概要
元禄7年(1694年)には、佃嶋(現・佃一丁目)に居住する男子からなる講組織「佃嶋氏子中」が河上正吉らによって結成され、その後、幾多の火災風災に見舞われながらも、氏子信者の結束によって近現代に及ぶ。

明治時代には、月島と新佃島、昭和時代には晴海と豊海が埋め立てられ、また、人足寄場や監獄として利用されていた石川島(別称:森島、鎧島)が、明治29年(1896年)5月に監獄移転に伴って工業・居住の地となり、これらを含めた全島が氏子中に編入されていった。

昭和22年(1947年)には、講組織「佃嶋氏子中」が「佃住吉講」と改称し、各町会・連合睦会と協力して、3年に一度の例祭(神幸祭)を執り行うようになる。獅子頭宮出し、宮神輿宮出し、古から行われていた神輿の海中渡御と船渡御は昭和37年(1962年)に廃止されたが、平成2年(1990年)には28年ぶりに船渡御が復活し、現在でも例祭中最も重要な行事の一つとされている。特に、住吉神社が所有する神輿は関東では珍しい八角形のものであり、「八角神輿」「八角」などと呼ばれている。また、古来、この祭りの際には高さ20mに及ぶ6本の大幟が佃島に立つ[3]が、江戸城からも見えるとまでいわれたその大きさで見る者を圧巻させてきた。

御旅所が勝どき四丁目(最初の所在地は勝どき二丁目)に、分社が江東区牡丹町(旧・佃町)と晴海にある。

境内の鳥居に格式高く飾られている陶製の扁額に見える文字は有栖川宮幟仁親王の筆による。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA)



住吉神社

龍神社
摂社の龍神社の御朱印もいただけます。

住吉神社 (7)

住吉神社 (6)

住吉神社 (4)

住吉神社 (2)

住吉神社 (3)

住吉神社

住吉神社 (5)

最寄駅は月島。朝早く着いたためもんじゃは食べず。何回行っても上手く作れない。

尾久八幡神社

尾久八幡神社

東京都荒川区西尾久3-7-3

八幡神社(はちまんじんじゃ)は、東京都荒川区西尾久に鎮座する神社[2]。尾久八幡神社(おぐはちまんじんじゃ)とも。旧上尾久村・旧下尾久村・旧船方村の鎮守[3]。旧社格は村社。

由緒
正確な創建の年は不詳だが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃にさかのぼると考えられ、神社に残る棟札から至徳2年(1385年)に社殿が建てられたことが確認できる。古くから尾久の人々に信仰されてきた[4]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%8D%92%E5%B7%9D%E5%8C%BA)



尾久八幡神社

卓球も名門尾久八幡中学の尾久八幡。

尾久八幡

尾久八幡 (4)

尾久八幡 (3)

尾久八幡 (2)

尾久八幡中学って卓球強かったですよね…って言ってもみなさんわからないですよね。

江北氷川神社

江北氷川神社

東京都足立区江北2丁目43−8

江北氷川神社一帯は、『足立姫伝説』(聖武天皇の御代・今から約千三百年前)発祥の地としても知られ、江戸時代には「六阿弥陀詣」の参詣者でたいへんにぎわいを見せた地域であります。現存する手水鉢(庚申塔も兼ねている大変珍しいものです)には、今から約三百年前、元禄十二年(一六九九年)に下・上沼田両村の氏子中によって奉納されたものであるという刻印があり、当時より地域の篤い崇敬を受けていた事が窺えます。
当神社は、明治初年村社に昇格し、同時に旧江北村(沼田、鹿浜、鹿浜新田、加賀皿沼、高野、谷在家、宮城、小台、堀之内)九ヵ村の総本社となり、お正月、節分、九月の秋季大祭には盛大な祭礼行事が執り行われています。
 戦後までは、旧江北村全体から、江北小学校に生徒が通っていたため、境内で遊んだ経験を持つ人は多く、学校の記念日、神社祭礼日などには、全校生徒がつらなって氷川神社にお参りして、紅白の饅頭をもらって帰ったと言います。昔の江北小学校の応援歌の中には氷川神社の神主が歌われており、当時の子供達には思いで深い場所だったようです。
境内に唯一残る桜の木は、神社のすぐ近くにあった、荒川の五色桜並木の末裔だと言われております。
 平成十一年には、地元氏子、並びに旧江北村全体の氏子・崇敬者から氷川神社宮御神輿・御神輿蔵改修の奉納を受け、現在でも連綿として篤き崇敬を受けております。
元旦は、大太鼓の音とともに多くの参拝者で賑わいます。初詣の参拝者には、二十年ほど前からご神前に上がっていた甘酒を振る舞っており、参拝者同士の会話の場として近隣に有名となり、現在では多くの近隣の神社で、これにならって初詣の接待がなされております。
初詣や大祭、節分祭などの祭事の時は、旧江北村十七社の総本社であることから多くの人々で、境内が埋め尽くされます。その数も年々増えてきており、近年益々その賑わいを増しています。
大祭では、境内には露店が並び、夜には奉納踊り、氏子町内では御神輿・山車が練り歩きます。
節分祭では、豆まきを行い、氏子の子供さんなどが、大勢やってきます。近隣の神社の中では、例年総本社である氷川神社が最後になるため、他の神社からの子供達もあいまって、境内は人で一杯になります。
 現在の本殿は、今から約百七十年前の天保四年(一八三三年)に再建、拝殿は明治八年(一八七五年)の再建と伝えられており、多くの戦・震災を免れて、昭和五十九年の「昭和の大改修工事」を経て、現在にその荘厳華麗な姿を残しております。
また、平成十三年には都内でも有数の大きさを誇る『提灯掛け』が奉納される等、現在でも連綿と地域の篤い信仰が受け継がれております。

以上当社ホームページより。 http://www.hikawajinja.com/



江北氷川神社

見事な見開き御朱印!!

江北氷川

江北氷川 (3)

江北氷川 (2)

江北氷川 (4)


丁寧にご対応いただきありがとうございました。豪雨ですな。