2013年11月

亀有香取神社

亀有香取神社

東京都葛飾区亀有3-42-24

鎌倉時代建治二年八月十九日(西暦一二七六年)、当時亀有の地は下総国葛西御厨亀無村と呼ばれ、香取大神宮の神領地であったことから本宮の御分霊(経津主大神)をお迎えし村の鎮守様としてお祀りされました。その後、鹿島(武甕槌大神)・息栖 (岐大神)の両大神を合わせおまつりし、東国三社の三社明神のお社として村人・近隣の人々を守り続け、約七百四十年の時を経て現在に至ります。

以上、亀有香取神社ホームページより。 https://www.kameari-katori.or.jp/information/#cont03



亀有香取神社

s-亀有香取 (2)
環七沿いのわかり易い立地で、七五三客が多かったですね。

s-亀有香取 (4)

s-亀有香取 (5)

s-亀有香取 (8)

s-亀有香取 (6)

亀有といえばこち亀。ウチの親父は白鳥麗二が好きだったな~。やっぱ男はポルシェだろって。アホですね。

葛西神社

葛西神社

東京都葛飾区東金町6丁目10−5

創建の年代は平安時代末期、元暦2年(1185年)である。当時は上葛西、下葛西合わせた三十三郷(現在の行政区分では、東京都葛飾区、江戸川区の全域、墨田区、江東区、足立区の一部地域にあたる)の総鎮守として葛西三郎清重公の信仰により 香取神宮の分霊を祀ったのが始まり。 この地は葛西御厨の神域にある。その具体的典拠としては「香取文書」の内、鎌倉時代から室町時代にかけての文書に「治承元年丁酉十二月九日 香取造営次第 葛西三郎清重」等を始めとする記述が散見出来る。なお、至徳4年(1387年)の官符によると御厨在住の領家である占部氏に関して「武蔵国猿俣関務事 香取大禰宜長房如先規可令成敗云々」等の記載があり、往還の人馬から関銭等も徴収し神宮の用途に充てていた事が検証出来る。中でも金町・小鮎(小合)・猿俣(猿町)・飯塚の四郷は古来より21年ごとに香取神宮の造営を携わっていた事はこの地との由縁を物語っている。上記の事由から葛西神社(当時は香取宮と称す)が郷内の守護神として祀られたと言われている。その後時を経てこの香取宮は明治8年には郷社に定められ、第二次世界大戦後は全国神社の社格が廃止され、宗教法人葛西神社として今日にいたる。

以上、ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE



葛西神社

s-葛西神社 (3)

s-葛西神社 (2)

s-葛西神社

酉の市でにぎわってました。

社務所に金髪碧眼の巫女さんがいました。キリスト教徒かユダヤ教徒じゃないのか?日本の文化を知るにはいいバイトなのかもしれませんね。

武蔵陵墓地

武蔵陵墓地

東京都八王子市長房町1833

最近話題の御陵に行ってきました。神社ではないですが、天皇陛下は神道を語るうえで欠かせないですし、今回掲載させていただきます。

昭和

大正

北野天満社 (5)
高尾駅から参道を歩く。銀杏並木が美しい。

御陵

御陵 (3)

御陵 (6)

御陵 (7)

御陵 (8)

御陵 (9)

御陵 (10)

御陵 (12)

御陵 (13)

御陵 (15)

御陵 (16)

御陵 (18)

御陵 (19)
御陵に深々と敬礼している方々を見ると、日本人の天皇陛下に対する畏敬の念を感じられますね。

次は関西の御陵も行きたいですね。

子安神社

子安神社

東京都八王子市明神町4丁目10−3

御祭神
木花開耶媛尊(このはなさくやひめのみこと)
大山咋命(おおやまくいのみこ)
素戔鳴尊(すさのおのみこと)
天照大神(あまてらすおおかみ)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
御由緒
 「天平宝字三年橘右京小輔勅を受ける。皇后御安産のためにここに草創す」と「新編武蔵国風土記稿」につたえられている。その後、再三の改築がなされ明治三十年の八王子大火ではほとんど鳥有に帰してしまった。源義家奥州下向の折戦勝を祈願し欅18本を舟形に植えたことから当社の森を古来船森と称す。

以上、東京都神社庁ホームページより。 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/minamitama/hachiouji/3184/



子安神社

金刀比羅神社
摂社の金刀比羅神社の御朱印もいただけます。

子安神社 (2)

子安神社 (3)

子安神社 (8)

子安神社 (12)

子安神社 (11)
子安神社、安産祈願で有名なんですよね。そこを抜いた柄杓を奉納する。

現状私には関係ありませんね。七五三でめっちゃ混雑してますね。

北野天満社

北野天満社

東京都八王子市北野町550-1

歴史
創建は不明、横山党の一族が京都北野天満宮を勧請したとされている[1][2]。
1591年(天正19年)〜1860年(万延元年)5石の社領を拝領する。
江戸時代将軍に武運長久の祈願札を毎年献上していた。
1600年代ご神木であるケヤキが植えられる。
1664年(寛文4年)社殿を再建する。
1880年(明治13年)唐破風向拝の社殿を再建する。
1963年(昭和38年)北野駅周辺の区画整理により由井第一小学校内にあった北野石器時代住居跡(市指定文化財)が移設される[3]。
1976年(昭和51年)菅公1075年忌事業により社殿を銅板葺きに改修する。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E7%A4%BE_(%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%B8%82)



北野天満社


北野天満社

北野天満社 (4)

北野天満社 (2)

北野天満社 (3)

御朱印は宮司宅でいただきました。やさしい方でした。ありがとうございました。

日吉神社

日吉神社

神奈川県横浜市港北区日吉3丁目9−5

創立年代は不詳ですが、古くから武蔵國橘樹郡矢上村総鎮守として、同村北方に位置する通称「お伊勢原」と呼ばれる丘の上に鎮座し、「神明社」と称しました。新編武蔵風土記稿には「矢上村古くは谷上と書きけり、村の北丘の上に神明社あり、入り口に鳥居二基あり、社頭に古松樹生茂りたれば古き宮居なることしらる」と記されています。
旧社殿は天明5(1758)年の修造と伝えられます。昭和11年、神明造りの本殿、幣殿、拝殿を改築。同14年にこの地が横浜市に編入させられたのを機に新町名に因み、社号を「日吉神社」と改めました。同51年には更に社殿を修復し、伊勢神宮の御分霊「天照坐皇大御神」勧請奉斎し、遷座祭を執行、以来8月28日を例大祭日と定め執り行っています。
平成14年には長年の懸案だった「参集殿」も完成、床下を収納庫にし、今までの祭礼幟竿・祭礼備品庫を取り壊し、裏参道拡幅などの境内設備工事も行いました。
また祭礼備品等庫の跡地には、これも宿願であった天神さまを、太宰府天満宮より御分霊いただき、新しく境内末社として「矢上天神社」の名称で創建いたしました。

以上、神奈川県神社庁ホームページより。 http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=178&cd=1202083



日吉神社

日吉神社
サークルの先輩家族のお宅訪問のため日吉へ。早く着いたので神社参拝します。

日吉神社 (10)

日吉神社 (9)

日吉神社 (8)

日吉神社 (3)

日吉神社 (4)

日吉神社 (6)
摂社の天神社には慶応合格祈願の絵馬がいっぱい。受験生がんばれ!勉強しろ!

日吉神社 (5)

日吉神社 (7)

先輩の家でかなりごちそうになってしまった。ありがとうございました。

奥沢神社

奥沢神社

東京都世田谷区奥沢5丁目22−1

奥澤神社の発祥は、室町時代までさかのぼる[1]。奥沢地区近辺は、南北朝時代の貞和年間(1345年-1349年)頃に吉良氏の領地となった[注釈 1][14]。奥澤神社の発祥について、社伝では室町時代に入って吉良氏家臣の大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護神として八幡神を勧請したものと伝えている[1][15]。当初は八幡神社と呼称され、吉良氏が各地に建立した「世田谷七沢(しちざわ)八八幡(はちはちまん)」の1つに数えられていた[注釈 2]。

1590年(天正18年)、後北条氏の滅亡とともに吉良氏の勢力も衰え、奥沢近辺は徳川氏の直轄領とされて荏原郡世田谷領奥沢村となった[14]。1662年(寛文2年)、村の西方が開墾された後に1669年(寛文9年)に検地を受けて「奥沢新田村」(現在の奥沢四丁目から八丁目の付近)が成立し、従来からの奥沢村(現在の奥沢一丁目から三丁目、及び四丁目の東側付近)は「奥沢本村」と呼ばれるようになった[14][19][20][21]。八幡神社は奥沢新田村の鎮守となった[11]。文化・文政期(化政文化の時期)に編纂された『新編武蔵風土記稿』巻之五十 荏原郡之十二では「村ノ東ノ方ニアリ。本社三間半ニ一間、拝殿二間ニ三間、前ニ鳥居ヲ建ツ。(中略)祭礼九月十五日、村民ウチヨリテ神楽ヲ奏ス。下沼部村密蔵院持(後略)」とあり、下沼部村(現在の大田区田園調布付近)の密蔵院[22](真言宗智山派、大田区田園調布南24番18号に現存)が別当寺を務めていた[23][1][20]。

明治時代に入ると、奥沢一帯は品川県に属することになった[24]。続いて明治4年(1871年)には廃藩置県、大区小区制によって「東京府第7大区第6小区」となった[24]。1875年(明治8年)3月の『神社明細簿』という資料によると、祭神は応神天皇で「創建年月不詳旧社号八幡大菩薩ト相称候」とあり、前年4月に村社に定められている[4][25][26]。

奥沢本村と奥沢新田村の両村は、1878年(明治11年)の小区制廃止とともに合併して奥沢村となった[注釈 3]。奥沢村は1889年(明治22年)に尾山村、等々力村、上野毛村、下野毛村、野良田村、瀬田村、用賀村が合併して新たに発足した玉川村の一部となった[24]。

1909年(明治42年)10月には、旧奥沢本村の鎮守である子安稲荷神社が合祀された[10][11][26][27]。子安稲荷神社は倉稲魂之命を祭神とし、現在の奥沢一丁目11番地付近に鎮座していた[26][27]。明治時代の初めごろ、子安稲荷神社の一帯は「稲荷山」と呼ばれていた[26][27]。この神社の氏子は26戸と少なかったため、秋祭りは毎年行うことがなかったと伝わる[26][27]。

八幡神社は子安稲荷神社の合祀を機に、「奥澤神社」と名を改めた[10][11][26]。昭和期に入る前後に一時神職不在の時期があり、荏原郡衾村(現在の目黒区碑文谷)の氷川神社から神主が来ていたという[28][26]。

『新編武蔵風土記稿』巻之五十で言及されていた本殿は、1912年(明治45年)に九品仏浄真寺に移築の上改修されて観音堂となった[15][28]。1913年(大正2年)に建立された本殿も、同じく九品仏浄真寺に移築されて五社として祀られた[15][28]。2回にわたる本殿の移築の経緯は不明とされるが、1985年(昭和60年)の『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』では当時の禰宜の話として「単に置き場所に困っただけではないか」という説を載せている[28]。なお、九品仏浄真寺との特別の関係はないという[28]。その後、1970年(昭和45年)に本殿が再建された[28]。

奥澤神社は、世田谷区立八幡小学校の発祥地である[2][29][30]。慶応の末に、この神社の社寮に下沼部村向河原の人(名は不明)が土地の子弟を集めて、そろばんや読み書きなどを教えた[29][30][31]。その後に小林大次郎という名の浪人が、その仕事を引き継いだ[29][30]。さらに東京府士族の松沢弘義が寺子屋を始め、さらに茨城県人の池田孝一郎が「池田学校」と名を改めて授業を続けた[29][30]。1879年(明治12年)12月20日、戸長の毛利多喜蔵などが社寮の一部を改修して認可を得、神社名をとって「八幡小学校」と命名した[29][30][31][32]。開校当時の児童数は30名、校舎の広さは15坪(約49.6平方メートル)であった[29][30]。その後1884年(明治17年)9月に隣接地での校舎新築を経て、1902年(明治35年)8月5日に現在地(世田谷区玉川田園調布二丁目17番15号)に移転した[4][31]。これを記念して、1970年(昭和45年)11月29日に「八幡小学校発祥之地」記念碑が境内に建立された[4][28]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%BE%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE

奥澤神社

奥沢神社 (2)

奥沢神社

奥沢神社 (3)
魚板を打って人を呼ぶシステム。インターホンみたいなものか。

奥沢神社 (5)

自由が丘熊野神社

自由が丘熊野神社

東京都目黒区自由が丘1丁目24−12

御祭神
速玉之男尊(はやたまのおのみこと)
伊弉冊命(いざなみのみこと)
泉津事解之男尊(よもつことさかのおのみこと)
御由緒
 “熊野信仰”は、鎌倉時代(1192~1333年)、庶民の間でも盛んになり、現在の目黒地域からも那智熊野参拝の記録があり、その時代、信仰の厚い土地の名士たちが西方熊野に赴き、熊野本宮の御神霊を拝受して祀られたと伝えられる。

以上、東京都神社庁ホームページより。 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/meguro/5208/



自由が丘熊の神社


自由が丘熊野神社
オリジナル御朱印帳があります。色は二種類。やまももにしました。

自由が丘熊野神社 (8)

自由が丘熊野神社 (7)

自由が丘熊野神社 (6)

自由が丘熊野神社 (4)

自由が丘熊野神社 (2)

自由が丘熊野神社 (5)

自由が丘おしゃれーやね。

於玉稲荷神社

於玉稲荷神社

東京都葛飾区新小岩4丁目21-6

当地は「小松の里」と呼ばれ、かつては徳川将軍の鷹狩の地でした。

古地図で見ると、この地に「おたまいなり」の所在が記されていますが、古くは御分社でありました。

当、於玉稲荷神社はこのゆかりの地に、安政2年の大震火災で焼失した神田お玉が池の社を、明治4年に御本社として遷宮したものです。

神田時代のお玉が池の稲荷神社の沿革については「江戸名所図会」神田之部所引の「於玉稲荷大神の由来」にも述べられているように、長禄元年 太田道灌の崇敬をはじめ、寛正元年 足利将軍義政公の祈願、さらには文禄4年 伊達政宗公の参詣などが記されております。

以上、於玉稲荷神社ホームページより。 http://www.miduho.gr.jp/otamainari/p1.html



おたま稲荷神社


於玉稲荷神社

於玉稲荷神社 (4)

於玉稲荷神社 (3)

新小岩駅からほど近いですが、住宅地の中にあるんでわかりにくいかもしれないですね。

御朱印達筆。ありがとうございました。

州崎神社

州崎神社

東京都江東区木場6丁目13−13

御祭神
市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)
御由緒
 元禄十三年(1700年)護持院隆光大僧正のご尽力により、江戸城中紅葉山に五代将軍綱吉公の御生母桂昌院の守本尊である弁財天(弘法大師作)と稲荷社を祀り洲﨑弁天社と称した。以来当社は江戸の観光名所として栄え、明治の神仏分離の際洲﨑神社と改める。

以上、東京都神社庁ホームページより。 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/koto/2061/



洲崎神社


州崎神社

州崎神社 (2)

州崎神社 (6)

州崎神社 (5)

木場駅の近くなんですが、工事中とかの関係でめちゃ回り道した。。酉の市って鷲神社以外でもあるんやな。