2013年10月

徳丸北野神社

徳丸北野神社

東京都板橋区徳丸6-34-3

御祭神
菅原道真公(すがはらみちざねこう)
御由緒
 天神宮紀によれは、正暦年中この地に悪疫が流行した際、里人の一人徳麿に夢のお告げがあり、梅の古木に病の癒えんことを祈願し霊験を得たことから、梅に縁り深い菅原道真公を、京都北野天満宮から奉迎し、長徳元年正月十一日に奉祀した。

以上、東京都神社庁ホームページより。 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/itabashi/3154/



徳丸北野神社

徳丸北野神社

徳丸北野神社 (4)

徳丸北野神社 (5)

徳丸北野神社 (6)

撫で牛。撫でまくって健康を祈願する。

徳丸北野神社 (8)

七五三のお参りを御家族がされてました。

赤塚氷川神社

赤塚氷川神社

板橋区赤塚4-22-1

御祭神
素盞嗚命(すさのおのみこと)
藤原広継命(ふじわらのひろつぐのみこと)
御由緒
 長禄元年(1457年)に武州赤塚城主千葉自胤が武蔵国一の宮氷川神社より御分霊を勧請したと伝えられる。『新編武蔵風土記稿』には、「氷川御霊合社 村の鎮守なり」と記されている。

以上、東京都神社庁ホームページより。 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/itabashi/5225/



赤塚氷川神社


赤塚氷川神社 (3)

赤塚氷川神社 (2)

赤塚氷川神社 (8)

赤塚氷川神社

宮司さんが丁度帰ってきたので御朱印をいただけました。ありがとうございました。

赤塚諏訪神社

赤塚諏訪神社

東京都板橋区大門11-1
地下鉄新高島平駅から徒歩15分

赤塚諏訪神社

赤塚諏訪神社

赤塚諏訪神社 (2)

赤塚諏訪神社 (3)

赤塚諏訪神社 (5)

赤塚諏訪神社 (4)

高島平の氷川神社と兼務されております。七五三で忙しい様子でした。ご対応いただきありがとうございました。

鳥海山大物忌神社

鳥海山大物忌神社

山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1

神社の創祀は欽明天皇二十五年(千四百余年前)の御代と伝えられている。

鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。

本社は山頂に鎮座し、麓に「口の宮」と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の二ケ所に鎮座する。

大物忌神社は貞観四年(八六二)十一月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。

後に、出羽國一の宮となり、朝野の崇敬を集めた。

特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。

中世、「神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治三年神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治四年五月吹浦口の宮が国幣中社に列したが、同十三年七月に山頂本社を国弊中社改め、同十四年に吹浦・蔵岡の社殿を口の宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。

昭和三十年に三社を総称して現社号となる。

山頂の御本殿は伊勢野神宮と同じく二十年毎に建て替える式年造営の制となっている。

現在のご本殿は平成九年に造営された。

以上、鳥海山大物忌神社ホームページより。 http://www9.plala.or.jp/thoukai/index.html



鳥海山大物忌神社

鳥海山大物忌神社 (2)

鳥海山大物忌神社 (3)

鳥海山大物忌神社

この後鳥海山スカイラインへ。絶景。芋煮美味い。

酒田で海鮮丼食べて、新潟の瀬波温泉へ。日本海沿いにひた走りました。信号ないから楽でしたが。日本海荒波やなあ。

道中で友人がずっと秋華賞の予想をしてましたが、メイショウマンボを切ってはずしてました。アホやなあ。

上杉家廟所

上杉家廟所

山形県米沢市御廟1-5-30

戦国時代の大名である上杉謙信が越後国(新潟県)春日山城に没すると、その遺骸は漆を塗り甲冑を着せて埋葬された。後継者の上杉景勝は、後に天下統一を果たした豊臣秀吉の臣下となり五大老に任じられ、会津へ移動。 それに伴い謙信の霊柩も越後から会津に移され仮堂に安置されたと云われている。

慶長6年(1601年)関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢に移動を命じられ、謙信の霊柩も再び移動することになる。 景勝は米沢入りを果たすと米沢城本丸に御堂を建立し謙信の霊柩をそこに安置したのである。

現在の上杉家廟所は米沢城址の北西あたりに位置しており、この場所は元々米沢城に一大事があった場合、一時的に謙信の霊柩を避難させる場所として設けられたと云う。

元和9年(1623年)景勝が他界すると現在の廟所に埋葬され、以後十二代藩主までここに埋葬される事になる。 明治政府の「廃城令」に伴い米沢城は解体され、謙信の霊柩も移動する事になり、当地に移る。

尚、現在の廟所は謙信霊廟を中央にして、その左右に歴代藩主の霊廟(墓所)が厳かに立ち並んでいる。二代景勝から八代重定までは、火葬での埋葬が行われ、御堂は入母屋造りの建造物である。さらに九代治憲から十二代斉定までは土葬となり御堂も宝形造りとなっている。治憲の倹約令により、構造も簡略化され材質も落とされている。 藩主ではないが、治憲の実子で十代治広の養嗣子であった顕孝も共に祀られている。また、明治以後に死去した十三代斉憲からは東京に墓所があるが、十四代茂憲は沖縄県令としての功績をたたえられ、沖縄県民有志により歴代藩主廟に並んで記念碑が建てられている。

地元では御霊屋(おたまや)とも呼ばれている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%B6%E5%BB%9F%E6%89%80



上杉家廟所

受付で書置きをいただきました。

上杉家廟所

上杉家廟所 (8)

上杉家廟所 (5)

上杉家廟所 (3)

写真ボケまくりやな。

友人と二人で行きましたが、めっちゃ退屈してました。まあ、お墓ですしね。

この後、山形駅でアホほど日本酒飲むことになる。十四代美味い。

上杉神社


上杉神社

山形県米沢市丸の内1丁目4-13

上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。

以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。

併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした。明治9年(1876年)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。

明治35年(1902年)4月26日には別格官幣社に列せられる。この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE



大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼し、伊東忠太の設計により現在に残る社殿が再建された。

上杉神社

上杉神社 (4)

友人と突然遠出しようと誘われ、山形県へ。

米沢まで来ましたので、謙信公に会いに来ました。

上杉謙信像 (2)

謙信公。

上杉神社 (7)

上杉神社 (5)

上杉神社 (6)

小菅神社

小菅神社

東京都葛飾区小菅3丁目1−2

小菅神社

小菅神社

小菅神社 (5)

御朱印は授与所で書置きをいただきました。

なかなか分かりにくい路地にありました。

堀切天祖神社

堀切天祖神社

葛飾区堀切3-11-2

御祭神
【主祭神】
天照皇大神
【境内末社】
誉田別命 菅原道真公 宇迦之御魂神
【境外末社】
菖蒲七福神
御由緒
 当社の創祀は永萬元年、伊勢の皇大神宮の御分霊を勧請したもので、後に境内末社として八幡宮、稲荷社、天神社が祀られ、また境外末社として菖蒲七福神、菖蒲十二支神があり堀切の神明さんとして地域の尊崇をあつめております。

以上、東京都神社庁ホームページより。 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/katsushika/6015/



堀切天祖神社

堀切天祖神社

堀切天祖神社 (9)

私より先に御朱印をいただいている女性がいらっしゃいました。熱心ですね。

立石熊野神社

立石熊野神社

東京都葛飾区立石8丁目44−31

由緒
平安時代中期、一条天皇の長保年間(999~1003)にご創建されました。今から一千年以上前、陰陽師として名高い安倍晴明公によって熊野大神が勧請されました。安倍晴明公ゆかりの神社として都内唯一、さらに葛飾区内で最も古い神社です。
平安時代最も有名な陰陽師 安倍晴明公は、当時最先端の呪術や科学であった天文道や占いなどの陰陽道に関して卓越した知識を持っていました。
華山上皇が那智山中で修行を行っている際、天狗が現れて様々な妨害を繰り返しました。
そこで晴明公は、岩屋に大勢の天狗を封じ込める祈祷をしたところ、天狗たちの妨害は見事に収まり、上皇の修行は無事に終えられました。
上皇の信頼を得た晴明公は、陰陽師として名声を極めました。
そして晴明公は華山上皇に伴い、那智熊野の地に於いて、三年間の滝行と山籠りの行を上皇と共に行いました。
その後清浄なる聖地を求める旅の旅中、たまたま当地に立ち寄り、この地を選定したと伝えられています。

以上、立石熊野神社ホームページより。 http://jinjya.kumano-kids.com/?page_id=42



立石熊野神社


立石熊野神社

立石熊野神社 (2)

立石熊野神社 (6)

熊野神社、なかなか立派でした。

青砥神社

青砥神社

東京都葛飾区青戸7丁目34−30

「万葉集」巻十四の東歌に 『にほどりの葛飾早稲を贄すとも そのかなしきを外に立てめやも』 とありますが、この
地は米どころとして葛飾の野に実った早稲の新米を神様に供して新嘗の祭事を営んでいたことが窺えます。

また青戸付近は良質粘土の原産地として早くも古墳時代より土器作りを主要とした人々の生活の地でもありました。

このように祭事に深く関わり営まれた信仰の地は葛西御厨(伊勢神宮の神領地)として応年5年(1398)下総国葛西
御厨注文(鏑矢伊勢宮方記)に見えています。


その後、幾多の戦や行政の変遷などにも揺らぐことなく受け継がれ、三社明神(稲荷・白髭・諏訪)と称し、この里の鎮
守神と崇られた様子が天正丙子年(1576)頃から文献等にみえ、その広大無辺の御神徳はこの里に人々が暮らしは
じめてから千有余年変わることなく、今を生きる皆様の上にも遍く日夜加護されております。


そして明治の御代に入り、詔によって神社の正実を明らかにすることとなりました。
 ー明治5年  社名を「白髭神社」と改称
 -昭和18年 旧青戸4丁目鎮座の白山神社を合祀し、「青砥神社」と改称
 -昭和35年 旧青戸町内に鎮座せる高木神社・八幡神社・北野神社・葛葉稲荷神社・水神社を合祀
 -昭和45年~55年にかけての環状七号線の整備により、葛西城址鎮座の青砥藤綱神社を合祀

以上、青砥神社ホームページより。 http://www.aoto-jinja.com/about.html



青砥神社

青砥神社 (4)

青砥神社 (5)

青砥神社 (8)

青砥神社 (7)

近所の人が銀杏拾ってました。焼いたら美味いよね。