2013年08月

漢槎宮(浮木神社)

漢槎宮(浮木神社)

秋田県仙北市西木町西明寺潟尻

湖に張り出す形になっている小さな神社で、流れ着いた大木の浮木(流木)を祀ったので別名を浮木神社という。また、潟尻明神とも呼ばれ、明和6年(1769年)秋田藩士で俳人で漢学者の益戸滄洲によって漢槎宮と命名された。よって田沢湖を漢槎湖または槎湖と呼ぶようになった。すぐ近くにたつ子像がある。

拝殿正面の扁額は、滄洲が田沢湖を遊覧した折に船頭をした少年斉藤千太郎に書き与えたもの。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%A7%8E%E5%AE%AE



浮木神社

浮木神社鳥居

浮木神社

8時間ぐらいかけて車で行ったんで、満身創痍でした。二人で交代で運転したけど、秋田遠すぎる。。

三峯神社

三峯神社

埼玉県秩父市三峰298-1

社伝によれば、景行天皇の時、日本武尊が東征中、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登って伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法ヶ岳・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える[2]。伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修業をし、空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる。

三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を「雲取山」と呼んでいる。

中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。養和元年(1182年)に、秩父を治めていた畠山重忠が願文を収めたところ霊験があったとして、建久6年(1195年)に東は薄郷(現・小鹿野町両神あたり)から西は甲斐と隔てる山までの土地を寄進して守護不入の地として以来、東国武士の信仰を集めて大いに栄えた[3]。しかし正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われて衰退した。

文亀年間(1501年-1504年)に修験者の月観道満がこの廃寺を知り、30数年勧説を続けて天文2年(1533年)に堂舍を再興させ、山主の龍栄が京都の聖護院に窮状を訴えて「大権現」を賜った[3]。以後は聖護院派天台修験の関東総本山とされて隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれた。以来、歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱(あやめびし)を寺の定紋とした[3]。

江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された。

伊奈忠福(伊奈氏はもともと関東郡代の一族だったが家督争いから一旦名跡取り上げとなり、その後秩父郡の小普請となった)の代に、土地山林を寺に寄進し、広く村人に信仰を勧め栄えたが[3]、明治の神仏分離により寺院を廃して「三峯神社」に改称した。明治16年(1883年)に近代社格制度において県社に列した。明治中期には、社務所に600人が泊まれる施設があり、客のための料理や酒も自家製で賄っていたという[4]。大正末期に秩父宮が参拝したことをきっかけに信徒が全国的に増え、講社数が増大した[3]。

昭和14年(1939年)には、麓から参道に沿って三峰ロープウェイが山頂まで敷設された(2007年廃止)。平成16年(2004年)に社殿を修復した。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%AF%E7%A5%9E%E7%A4%BE



三峰神社

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三峰 (13)

三峰 (9)

三峰 (11)

三峰 (3)

三峰 (4)

新宿でレンタカー借りて行きましたが、めちゃ遠かった。。前日飲みすぎて二日酔いだったから、助手席で死にかけてました。。

秩父神社

秩父神社

埼玉県秩父市番場町1-3

秩父神社のご創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。

元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。その後、昭和3年には國幣小社の社格となり、現在は神社本庁の別表神社となっています。平成26年には御鎮座2100年を迎え、同年12月3日の例祭において天皇陛下より臨時御奉幣を賜り盛大に祭典が執り行われました。

現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されています。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財と重要有形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。平成28年には、全国33件の祭からなる「山・鉾・屋台行事」の1つとして、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界無形文化遺産に登録されました。

以上、秩父神社ホームページより。 http://www.chichibu-jinja.or.jp/saijin/



秩父神社

オリジナル御朱印帳が紙質が良くて(和紙)欲しかったですが、断念。

秩父 (2)

秩父 (3)

秩父

秩父 (4)

三嶋大社

三嶋大社

静岡県三島市大宮町2-1-5

御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。

中世以降、武士の崇敬、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願しました。神助を得てこれが成功するや、社領神宝を寄せ益々崇敬することとなりました。この神宝の中でも、頼朝の妻、北条政子の奉納と伝えられる 国宝「梅蒔絵手箱 及び 内容品 一具」は、当時の最高技術を結集させたものとして知られています。

頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬篤く、又、東海道に面し、伊豆地方の玄関口として下田街道の起点に位置し、伊豆国 一宮として三嶋大明神の称は広く天下に広まっていきました。

その後、明治4年の近代の社格制度では、官幣大社に列せられています。又、平成12年には、御本殿が重要文化財に指定され、当社の文化的価値の高さも再認識されています。

以上、三嶋大社ホームページより。 http://www.mishimataisha.or.jp/shrine/



三嶋大社


伊豆国一の宮です。

三嶋大社

三嶋大社 (2)

三嶋大社 (8)

三嶋大社 (9)

三嶋大社 (15)

お祭りでにぎわってました。

富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社

静岡県富士宮市宮町1-1

「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。
その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。

以上、富士山本宮浅間大社ホームページより。 http://fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html


富士山本宮浅間大社

浅間大社

浅間大社 (3)

浅間大社 (4)

浅間大社 (6)

浅間大社 (7)

浅間大社 (9)

浅間大社 (15)

富士宮のビジネスホテルを出て、早朝に参拝しましたが、御朱印いただけました。

満願弁財天

満願弁財天

大稲荷神社の近くに鎮座。

満願弁財天

満願弁財天

満願弁財天 (2)

御朱印は社務所にて書置きをいただきました。

大稲荷神社

大稲荷神社

神奈川県小田原市城山1丁目22−1

大稲荷神社の由来伝記によれば小田原城北条時代に修験者が旧竹ノ花地区内に修験堂を建立した。
武田家の臣曲淵氏が主家滅亡後徳川家に随身この地を采地として賜り、修験堂に稲荷大明神をおまつりしたことに始まり、その後天正十八年(西暦一五九〇年)初代大久保忠世公小田原城主となり、京都伏見稲荷大社の最北座田中大神を合祀し信仰ことに篤かったが、子忠隣公の時に幕府の忌諱に触れ改易となり、それ以来永年に亙り祭祀するものも無く荒廃にまかせた。
貞亭三年(西暦一六八六年)忠朝公小田原に帰藩が許され、その子忠増公の時に家臣清水氏の妹並びに側近内芝氏に御神託あり、その御告げに従い小田原城の鬼門除稲荷として再興したため、忠増公には老中執政職に昇進その御神徳の崇高広大にしてそのあらたかさに恐懼感激し、宝永三年五月(西暦一七〇六年)現在地の谷津山に御社殿を造営せられたものである。

以上、大稲荷神社ホームページより。 http://daiinarijinjya.com/history/



大稲荷神社
大稲荷神社 (4)

愛宕神社(小田原)

大稲荷神社 (3)


摂社
愛宕神社(あたごじんじゃ)

錦織神社

大稲荷神社 (10)

錦織神社(にしきおりじんじゃ)


報徳二宮神社

報徳二宮神社

神奈川県小田原市城内8−10

明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神宛を拡張し現在の社地の景観をを整えました。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今日に至っています。

現在、神社本庁別表神社。社殿は神明造り。なお、拝殿礎石は天保の大飢餓の際、藩主大久保公の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています。

以上、報徳二宮神社ホームページより。 http://www.ninomiya.or.jp/info/



報徳二宮神社

尊徳 (3)

尊徳 (10)

尊徳 (12)

小田原城 (9)

名城小田原。北条早雲かっこいいなあ。

鎌倉宮

鎌倉宮

神奈川県鎌倉市二階堂154

祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められた。

武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。

明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。

1939年(昭和14年)1月18日、日本郵船の客船「秩父丸」は「鎌倉丸」と改名する[2]。客船「氷川丸」の船橋に氷川神社の祭神を祀っているように、「秩父丸」にも秩父神社を勧請していた[2]。改名に際し、「鎌倉丸」は新たに鎌倉宮から御祭神を奉安した[2]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%AE%AE



鎌倉宮

鎌倉宮 (9)

鎌倉宮 (2)

鎌倉宮 (5)

建武中興十五社巡りも、順調に進んでおります。西日本はまったく参拝できてませんが。

旗上弁財天社

旗上弁財天社

鶴岡八幡宮境内に鎮座。

鶴岡八幡宮、三の鳥居そばの源氏池に浮かぶ島にあります。
幕政を好まず皇権回復を図る後鳥羽上皇に対し、故、頼朝の妻、北条政子が当地に御家人たちを集め、旗上げしたことに始まります。(承久の乱)
主祭神の弁財天は裸弁財天で、明治の神仏分離令までは本殿に安置されていました。今では国宝館に保存されています。
境内の裏手に、源頼朝が北条政子の安産を祈ったと言われる政子石があります。

以上、鎌倉ガイドホームページより。 http://www.geocities.jp/hoshinoufo21/hataagebenzaitensya.html



旗上弁才天


鶴岡 (4)

鶴岡 (5)

鶴岡 (6)

鶴岡八幡宮は24年12月に一度参拝しておりますが、旗揚弁財天社を参拝し忘れておりましたので再訪。