2013年05月

伊佐須美神社

伊佐須美神社

福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377

会津盆地南縁の宮川沿いに鎮座する、陸奥国二宮・会津総鎮守である[1]。「会津」という地名は、第10代崇神天皇の時に派遣された四道将軍のうちの2人、北陸道を進んだ大毘古命と東海道を進んだ建沼河別命とが会津で行き会ったことに由来するといわれ、2人が会津の開拓神を祀ったのが伊佐須美神社の創祀とされる。会津地方では、古墳時代前期にはすでにヤマト王権特有の大型前方後円墳が築造されており、王権勢力の東北地方への伸長の実情を考える上で重要な要素を担う神社である。

境内は広く、内部には鬱蒼とした社叢が広がる。社殿は平成20年(2008年)の火災で焼失したため、現在は仮社殿を設けたうえで再建中である。また文化財として、室町時代の朱漆金銅装神輿(国の重要文化財)を始めとする多くの社宝・天然記念物・神事を現在に伝えている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BD%90%E9%A0%88%E7%BE%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE



伊佐須美神社

見開き2ページの御朱印かっこいい!!

岩代紋

社殿は放火で焼失したそうで、募金お願いしてました。みなさん参拝したら協力してあげてくださいね。

鶴ヶ城稲荷神社

鶴ヶ城稲荷神社

会津若松の鶴ヶ城内に鎮座。

鶴ヶ城稲荷神社

鶴ヶ城稲荷

鶴ヶ城稲荷 (2)

鶴ヶ城稲荷 (3)

鶴ヶ城稲荷 (4)

鶴ヶ城

鶴ヶ城、花

八重の桜の影響か、会津若松は観光客でいっぱいですね。

宇賀神堂

宇賀神堂

福島県会津若松市一箕町大字八幡弁天下1404

白虎隊19士の墓から少し下ったさざえ堂の境内に隣接したところにある。創建は寛文年間(1661~1672)で、内部には白虎隊19士の霊像が安置されている。

以上、るるぶ.com 宇賀神堂の観光情報より。 http://www.rurubu.com/sight/detail.aspx?BookID=J0041436 



宇賀神堂

宇賀神堂

さざえ堂は時間がなかったので入らず。駆け足での会津観光になってしまった。またゆっくり来たいなあ。

飯盛山

飯盛山

福島県会津若松市一箕町

「飯盛山」という名前の由来は、この山が飯を盛ったような形なので、この名前が付けられたという。

江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊と呼ばれる部隊が結成され抗戦するが、そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃した地でもある。「白虎隊十九士の墓」には、年間200万人ともいわれる観光客が訪れ、墓前に 山のふもとには土産屋が並ぶ。この土産屋一帯は、昔から存在し、無料の看板で駐車場へ誘うものの一定の土産物屋で買い物を迫る「買うように迫る商法」とよく言われ、強烈な誘いで有名。山へ登るのには2つのコースがあり、徒歩で登るコースと、エスカレータで登るコースがある。(後者有料)

中腹には、日本では大変珍しい木造建築物栄螺堂(さざえどう)(旧正宗寺三匝堂)がある。上りと下りで同じ道を通らず抜けられるという仕組みで、国の重要文化財に指定されており、これ目当てで観光に来る客も多い。

頂上からは会津若松市内が一望できる。 テレビ朝日系ドラマ「白虎隊」のロケ地でもある。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%9B%9B%E5%B1%B1_(%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C)



白虎隊

飯盛山
こちらの御朱印は売店でいただきました。

飯森

飯盛山

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飯盛山からの景色。白虎隊は自決前、鶴ヶ城から煙が上がる様をここから見ていたのでしょう。

蚕養国神社

蚕養国神社

福島県会津若松市蚕養町2-1

創建
社伝では、弘仁2年(811年)の創建という[1]。

『延喜式』神名帳では、この蚕養国神社以外に社名を「蚕養国」とする官社はなく、この社名は当社が唯一のものになる[2]。社名に見えるように蚕養国神社の創建には養蚕業が関係すると考えられているが、会津で養蚕が盛んだったことにより祀られたというよりは、会津で養蚕を盛んにしようとする中央政府の政策のために祀られるようになったと見る説が挙げられている[2]。その背景として、『日本後紀』延暦15年(796年)11月8日条に見える、伊勢・三河・相模・近江・丹波・但馬等の国の婦女2人ずつを陸奥国に遣わして2年間養蚕技術を教えさせたという記事の存在が指摘される[2]。

概史
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では陸奥国会津郡に「蚕養国神社」と記載され、式内社に列している[3]。会津郡の式内社は蚕養国神社と伊佐須美神社(大沼郡会津美里町)のみであった[3]。

この蚕養国神社について国史に記載は見えないが、社伝では承和年間(834年-848年)に陸奥・出羽国按察使兼鎮守府将軍の藤原富士麻呂の奏上により官社に列したというほか、寛弘7年(1011年)には県令の石部少将道秀らによって社殿が創設されたという[1]。その後、兵火により社殿を焼失し衰退するが、会津藩初代藩主の保科正之によって復興され、社殿造営と社領20石の安堵を得た[1]。さらに寛保3年(1743年)には神階が正一位に進み、文化4年(1807年)には火災によって社殿を焼失したが、文政2年(1819年)に8代藩主の松平容敬によって再建されたという[1]。

明治維新後、明治9年(1876年)11月に近代社格制度において県社に列した[4]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E9%A4%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE



蚕養国神社

蚕神社

蚕神社 (3)

蚕神社 (2)

郡山から始発で会津若松へ。飯盛山への道中にあったので、参拝。社務所の巫女さん可愛い。

霊山神社

霊山神社

福島県伊達市霊山町大石古屋舘1

祭神
建武の新政以降、陸奥の鎮定にあたり、南朝に従った北畠親房、北畠顕家、北畠顕信、北畠守親の親子を祭神とする。鎮座地の霊山は親房以降の北畠氏の本拠地で、顕家が陸奥国府を置いた地である。

歴史
1817年(文化14年)、松平定信がこの地に霊山碑を建てた。1868年(明治元年)、米沢藩の儒者・中山雪堂と医師・西尾元詢が顕家らの英霊を祀る神社の創立の運動を起こした。1876年(明治9年)の明治天皇の東北巡幸を機会として、陸奥国府があったことにより建武の新政にゆかりのある霊山が選定。明治12年11月に創立が請願され、1880年(明治13年)6月、霊山の西方山麓の北畠氏の支城があった地に社殿が造営された。1881年(明治14年)5月11日に鎮座祭が行われ、1885年(明治18年)に別格官幣社に列せられた。明治期、元会津藩筆頭家老であった西郷頼母が神社の神職を勤め、親族の西郷四郎を養子として育て境内で柔術を教えていたが、四郎は後に上京し講道館の嘉納治五郎に師事し柔道修業に励んだ。小説や映画で有名な姿三四郎は彼がモデルといわれる。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE



霊山神社


霊山門

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福島駅からタクシーで参拝しましたが、めっちゃ遠かった。。参拝できてよかったけど。

建武中興十五社朱印帳

建武中興十五社の御朱印帳も入手しました。全国に散らばっているので、頑張って参拝したいです。

石都々古和気神社

石都々古和気神社

福島県石川郡石川町字下泉160

祭神
味秬高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を主祭神とし、大国主命(おおくにぬしのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと。八幡神)を配祀する。当社の元元の祭神は味秬高彦根命で、これは棚倉町の都都古別神社(都都古和気神社)二社と同じであり、都都古別神社から分祀されたものであるという説もあるが明確な裏附けはない。

歴史
当社は八幡山と呼ばれる山の頂上にある。創建の年代は不詳であるが、八幡山には磐境が多数あり、古代から祭祀の地とされていたことがわかる。延喜式神名帳の記述が書物における当社の初見である。

永承6年(1051年)、源有光が源義家の安倍一族追討の軍に加わって功績を挙げ、代官として石川の地を賜った。有光は康平6年(1063年)にこの地に移って名を石川有光とし、八幡山山頂の当社東側に三芦城(石川城)を築城した。以降25代528年間にわたって石川氏の居城となっていたが、豊臣秀吉により取り上げられた。治暦2年(1066年)、源氏の氏神である石清水八幡宮の分霊(八幡神・大国主命)を勧請して石都々古和気神社に合祀した。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%83%BD%E3%80%85%E5%8F%A4%E5%92%8C%E6%B0%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE



いわづつこわけ神社


石川一宮

御朱印は下の社務所でいただきました。お菓子もいただきました。ありがとうございました。

猫啼温泉に行きたかったけど、連休はいっぱいだとタクシーの運ちゃんに言われたので諦めて郡山に帰る。バイバイ、温泉。

馬場都都古別神社

馬場都都古別神社

福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39

都々古別三社の一社で、江戸時代頃には「近津三社」(馬場都々古別神社・八槻都々古別神社・下宮近津神社)と総称された“上の宮”にあたります。
かつて「東夷」を鎮定した日本武尊(ヤマトタケル)が、初め建鉾山(白河市)に鉾を祭り、のちに大同二年(807年)坂上田村麻呂が近世棚倉城の地に移したと伝えられます。寛永元年(1624年)に棚倉藩主丹羽長重が棚倉城を築城するため現在の地に神社を遷宮しました。
祭神は味耜高彦根命と日本武尊を祭ります。
境内には樹齢数百年の古木が茂り、棚倉城地より解体移築されたと伝えられる流造の本殿や、向拝一間に唐破風を持つ拝殿は荘厳です。また棚倉町出身の近代画家勝田蕉琴の筆塚もこの境内にあります。
社宝には鎌倉時代源義家が寄進したとされる長覆輪太刀二口(国重文)や、赤糸威鎧残闕(国重文)などがあり、数多くの貴重な文化財が保管されています。

以上、棚倉町公式ホームページより。 http://www.town.tanagura.fukushima.jp/sp/page/page000339.html


都々古別神社(馬場)

棚倉鳥居

棚倉鳥居2

棚倉門

棚倉神社

「バイパスをまーっすぐ行って、ケーズデンキとセブンイレブンの交差点を右で着くよ。」
との巫女さんの言葉を信じて進むと、到着。

一時間近く歩きましたな。爽快。

御朱印は神社手前の宮司宅でいただきました。

都々古別神社

都々古別神社

福島県東白川郡棚倉町八槻字大宮224

社記(慶長2年(1597年)の陸奥国一宮近津大明神縁起)によると、第12代景行天皇の時に皇子の日本武尊が奥羽に至り八溝山の東夷を討った際、日本武尊を守護した3神が建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れたので、尊は東方に箭を放ち箭の着いた地(箭津幾:やつき)に神社を創建したという。そして源義家が奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝える。[17][9]

地名の「八槻」の語源伝承は『陸奥国風土記』逸文(大善院旧記所引)にも見え、日本武尊が東夷征伐の際に放った八目鳴鏑(鏑矢)が落ちた地が「矢着」と称されたが神亀3年(726年)に「八槻」に改めたとし、別伝として日本武尊が放ち8人の土蜘蛛(在地首長)を貫いた8本の矢がいずれも槻の木になったので「八槻」になったともいう[18][4]。これらは、陸奥勢力のヤマト勢力への服属を日本武尊の東征に仮託して説明したものとされる[4]。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E3%80%85%E5%8F%A4%E5%88%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE#%E9%83%BD%E3%80%85%E5%8F%A4%E5%88%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%A3%9A%E5%80%89%E7%94%BA%E5%85%AB%E6%A7%BB)



つつこわけ神社


近津

陸奥国一宮の一つです。水郡線沿線に福島県の一宮は3社とも鎮座していますので、

「これは参拝しやすいな~余裕やな~。」と油断していると、水郡線は一時間に一本も電車が来ないというローカル線であることが判明。歩いて移動することに。。

近津~棚倉

磐城棚倉まで歩くよ~。果てしないよ~。