2012年12月

銭洗弁財天宇賀福神社

銭洗弁財天宇賀福神社

神奈川県鎌倉市佐助2-25-16

歴史
源頼朝が、巳年である1185年(文治元年)の巳の月(旧暦4月)巳の日に見た霊夢に従い、佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけ、そこに洞を穿ち社を建てて宇賀神を祀ったと伝えられる。

同じく巳年の1257年(正嘉元年)に、北条時頼がこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったのが銭洗の始まりだといわれる。

宇賀神と弁財天が神仏習合して弁財天と呼ばれ、相馬天王(扇ヶ谷)の末社だった。明治時代の神仏分離により、相馬天王は八坂大神と改称、当社も祭神を市杵島姫命とし、1970年(昭和45年)には末社から独立した。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E6%B4%97%E5%BC%81%E8%B2%A1%E5%A4%A9%E5%AE%87%E8%B3%80%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E7%A4%BE



銭洗弁財天

私もお金を洗ってみました。観光っぽくて楽しかったです。

佐助稲荷神社

佐助稲荷神社

神奈川県鎌倉市佐助2丁目22−10

勧進年月は未詳。神社の縁起によると、平治の乱後に伊豆に配流された源頼朝の夢に、稲荷の神霊が老翁の姿で現れ、平家討伐の時節到来を告げて挙兵をうながした。そのため、平家討伐後、「佐介ガ谷隠れ里」の霊地を選び、畠山重忠に命じて社殿を造らせたという。 「佐助(介)」という地名は、「前右兵衛権佐」だった頼朝を助けたためとか、上総介・千葉介・三浦介という3人の介の屋敷があったため「三介ガ谷」と呼ばれていたのが変化したものなどといわれている。 吾妻鏡には当神社の記述がない。

延文4年(1359年)12月11日、鎌倉公方足利基氏は凶徒退治の祈祷を「佐介稲荷社別当三位僧都御房」に命じたという記録が残っている。 応永25年(1418年)2月、関東管領上杉憲実が鶴岡八幡宮の供僧に対して当社の別当職と社領を安堵している。

古くは、鶴岡八幡宮非常時の御旅所で飛地境外末社だったが、明治42年(1909年)に独立した。

2015年の映画「駆込み女と駆出し男」の物語の舞台としても登場した。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%8A%A9%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE


佐助稲荷神社


葛原岡神社

葛原岡神社

神奈川県鎌倉市山ノ内1157

葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)は後醍醐(ごだいご)天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基(ひのとしもと)卿をお祀りする神社です。

俊基卿は幼い頃から学問の道に優れ、大変有能な人物であったので、後醍醐天皇より見出されて、優秀な側近として活躍されました。

当時、鎌倉幕府は悪政を続けており、後醍醐天皇は政治を正しい姿へと導くため、幕府を打倒する決意を固められ、計画を練られました。
俊基卿も、後醍醐天皇の最も信頼の厚い側近のひとりとして計画に加わり、重要な役割を果たしておりました。

ところが、正中元(1324)年、幕府打倒の計画は事前に幕府に察知され、俊基卿は捕らわれの身となって鎌倉へと送られてしまいました。
しかし、俊基卿の身を心配された後醍醐天皇が鎌倉へ万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)卿を派遣、とりなしに努めたので、翌年には京都へと戻ることが出来ました。
その後も、後醍醐天皇は屈せず鎌倉倒幕の計画を進められ、俊基卿も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしておりましたが、元弘元(1331)年、またも計画が幕府に知られ、俊基卿は天皇をかばうため、再び捕らわれの身となりました。

鎌倉へ送られた俊基卿は計画の中心人物として、翌元弘二(1332)年六月三日、幕府の手によって葛原岡にて悲劇のご最期を迎えられました。
その間、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の元弘三(1333)年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。

俊基卿自身は、その目で『建武の中興』を見ることなく、悲劇のご最期を迎えられましたが、明治天皇は俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、明治17年勅旨をもって従三位を追贈され、同20年にご最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われました。

以来、鎌倉由比ヶ浜の総鎮守として、また「建武の中興」への道を開かれたことから「開運の神様」、また文章博士として優れた能力発揮されたことから「学問の神様」として、今日でも広く全国各地より篤く崇敬されております。

以上、葛原岡神社ホームページより。 http://www.kuzuharaoka.jp/about.html



葛原岡神社

先輩(女子)たちと鎌倉散策中に立ち寄りました。

縁結びに加護あり的な看板がありましたが、由緒からは縁結びはあんまり関係なさげな感じが。

やっぱり縁結びって書いておいたほうが参拝客増えるのかもしれないですね。

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−31

当宮は康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。

その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。 また、頼朝公は流鏑馬や相撲、舞楽など、今日にも引き継がれる社頭での神事や行事を興し、 関東の総鎮守として当宮に厚い崇敬の誠を寄せたのです。 以降、当宮は武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広まりました。 当宮への信仰を背景に鎌倉を中心として興った質実剛健の気風は、その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となりました。 現在では国際的史都鎌倉の中心的施設として国の内外より年間を通して数多の参拝者が訪れます。

現在の御本殿は、文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、 若宮とともに国の重要文化財に指定されています。 深い杜の緑と鮮やかな御社殿の朱色が調和する境内には源頼朝公、実朝公をお祀りする白旗神社をはじめとする境内社のほか、 静御前ゆかりの舞殿や段葛が八百年の長い歴史を伝えています。

以上、鶴岡八幡宮ホームページより。 http://www.hachimangu.or.jp/about/lineage/index.html



鶴岡八幡宮

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鶴岡

鶴岡 (8)

鶴岡 (10)

夏休み巡礼旅行の最終日に参拝しましたが、流石鶴岡。参拝客いっぱいです。