2012年02月

鷺宮八幡神社

鷺宮八幡神社

東京都中野区白鷺1丁目31-10

社伝によれば、康平7年(1064年)に前九年の役に勝利し東北を平定した源頼義が戦勝を感謝し、国家と源氏の安寧を願い建立したのが始まりとされる。高松八幡神社も同じ由緒であり、両社は鎌倉街道を挟んで南北に建立されている。鷺宮の方が先に建立されたので、高松の方は若宮八幡宮と呼ばれるようになった。

『新編武蔵風土記稿』(1884)の下鷺ノ宮村の項目には、「古ハ大木数多アリテ多クノ鷺ヤドリシユヘ、土人、鷺ノ森或ハ鷺ノ宮ナドイヘリ」とあり、その昔、境内に老樹が林立し、鷺が多く棲息していたことから、近隣の里人は鷺宮大明神と称し、これが地名の由来となった。

正保2年(1645年)、この地の領主であった今川直房によって八幡神社と改称。慶安2年(1649年)以降は江戸幕府より御朱印7石余を寄進され、中野区内においては唯一、朱印を付与された神社となる。『新編武蔵風土記稿』によれば、本地仏として十一面観音を祀っていたこと、「サレハ古社ナルヘケレト社傅ヲ失ヒタレハ其詳タルコトヲシラス別当は福蔵院ナリ」とあり、明治の頃には社殿が損失していること、別当寺として隣接している福蔵院が就いていたことが記されている。

戦後、宗教法人法により発足し、昭和25年(1950年)に国有地となっていた境内地1049坪(3462平方メートル)の譲与を受けた。同35年に社殿、幣殿、拝殿が改築された。改築は同56年、63年にも行われている。42年と43年には近隣にあったと思われる稲荷神社と御嶽神社を当社に移築した。

鳥居は1780年に建てられた石製のものだったが、2011年の東日本大震災で破損したことから、現在は鉄合金製のものに改築されている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%BA%E5%AE%AE%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%8C%BA)




鷺宮八幡神社
御朱印に住所と電話番号が記されている。

鷺ノ宮八幡 (2)

鷺ノ宮八幡 (3)

鳩森八幡神社

鳩森八幡神社

東京都渋谷区千駄ヶ谷1丁目1−24

「江戸名所図会」によると、「往古、此地深林の中に時として瑞雲現じける。又或時、碧空より白雲降りて雲上に散ず。村民怪しむで彼の林の下に至るに、忽然として、白鳩数多、西をさして飛び去れり。依って此の霊瑞を称し、小祠を営み名づけて『はとのもり』と云ふ。」とあり、神亀年間(724年 - 729年)に創建された社に、貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が村民の懇請によって神功皇后・応神天皇・春日明神の像を作り添え、八幡宮として奉ったことが当社の縁起と伝えている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%8C%BA%E5%8D%83%E9%A7%84%E3%83%B6%E8%B0%B7)



鳩森八幡神社

富士塚の参拝記念の朱印もあるみたいでしたが、そちらはいただかず。

中井御霊神社

中井御霊神社

東京都新宿区中井2丁目29−16

『中井御霊神社』は、創建が不明であるものの、古くから落合村中井の鎮守でした。この神社には、「備射祭」(新宿区指定文化財)に使われる的を描く際に、「コンパス」として用いる『分木』(新宿区指定文化財)が保存されています。2本の『分木』の存在によって、江戸時代以前にすでに「備射祭」が行われていたことがわかります。また、『雨乞のむしろ旗』(新宿区指定文化財)も保存されています。これは、江戸時代に農民が雨乞いの行事で用いたものです。「竜王神」と墨書され、干害に備えて竜神に降雨を願いました。現在のむしろ旗は、幕末頃のものと推定されます。素朴な農民の信仰がうかがえる貴重な民俗資料です。

以上、一般社団法人新宿観光振興協会ホームページより。 http://www.kanko-shinjuku.jp/spot/kw-%E4%B8%AD%E4%BA%95%E5%BE%A1%E9%9C%8A/article_317.html



中井御霊神社


御霊って響きがいい。神仏は恐れないとね。

諏訪神社

諏訪神社

東京都新宿区高田馬場1丁目12−6

当社の創建は、弘仁年中(西暦810~820)小野篁朝臣が、大国主命、事代主命を祭祀すと云われます。 当時当神社は、奥羽街道の一部松原街道に面しておりましたので、松原神社と称されておりました。 承和年中(西暦834~848)には、空海の弟真雅僧正再営と伝えられます。 永承年中(西暦1046~1053)源頼義、義家父子が陸奥の国の阿倍氏反乱(前九年の役)鎮定の折、当社に祈願せられ、凱陣の節には武器を納められました。

 文治五年(西暦1189)の春、源頼朝公が藤原泰衡討伐の為、陸奥発向のみぎり、当社に祈願あり、凱陣の後に社殿を造営せられました。 この時頼朝公は、頼義、義家父子を当社境内に白旗社として祀られました。 建長六年(西暦1254)北条時頼が、厳島神社を境内に祭祀しました。 この神社は当神社の飛地に池と共に祀られておりましたが、現在は本社に合祀されております。

 応仁三年(西暦1469)春、太田道灌が社殿を再営しましたが、北条早雲の為悉く焼失しました。

 その後江戸時代初期に、尾張の徳川家の祖である徳川義直公が、信濃国の諏訪神を勧請し、当社に合祀せられ、現在の諏訪神社と改称致しました。 又人皇第百八代後水尾天皇が、当社に御神体を御寄附になりました。 寛永年中(西暦1624~1644)将軍徳川家光公が造営せられ、続いて家綱公が当時当社近隣地域は鷹狩りの名所でありましたので手鷹を奉納され、 これより老鳥は代々当社へ奉納することになりました。 又これにちなみ、鷹狩りの絵馬が数多く奉納されるようになり、今でも新宿区内随一多数の貴重な絵馬が神社に保存されております。

 明和年中(西暦1764~1772)家治公が鷹狩りの節に参詣されて、当社の御祭神を御城庭へ遷祭の上意があり、 依って紅葉山(今の宮城内)、吹上(浜離宮)両御庭へ遷祭致しました。 その後、営繕の儀は全て徳川家に於て奉仕せられました。天保六年(西暦1835)に社務所より出火し、神庫、末社に至るまで、悉く焼失しました。

 明治三年社殿もひどく破損しましたので、氏子一同が修復を致しました。

 その後、社殿も大変老朽化し破損もはなはだしくなりましたので、明治百年の記念事業として神社の建造物全般にわたる新築計画がなされ、 昭和四十九年に社務所新筋工事より着手し、翌年完成、続いて宮神輿庫が、奈良県唐招提寺の国宝の校倉を模して建て替えられました。 そして昭和五十二年にいよいよ本殿御造営工事が始められ、三年を費やし、昭和五十五年に、荘厳にして華麗なる新社殿が落成致しました。

以上諏訪神社ホームページより。  http://sinjukusuwa.jp/suwa/index.html



諏訪神社


学生時代よくこの辺通ったけど、参拝したのはこの時が初めて。やすべえのつけ麺たべたい。

穴八幡宮

穴八幡宮

東京都新宿区西早稲田2丁目1−11

社伝によれば、1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。

1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神とした。

1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。

歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。

江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名だった。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っている。

1945年(昭和20年)の東京大空襲で、建物の多くを焼失。

1961年(昭和36年)御鎮座900年事業として本殿再建工事を開始。

1989年(平成元年)引き続き幣殿、拝殿工事を行う。

1998年(平成10年)、隨神門を室町時代の様式で再建す、なお境内全域を古書を基に未だ再建途中。

また冬至の「一陽来復」[1]のお守りでも知られる。お守りを受け取れる期間は毎年冬至の日から翌年節分の日までであり、冬至の日は特別に午前5時から受け取る事ができる。


なお、現在同神社は旧別当の放生寺と日本キリスト教団早稲田教会と隣接しており、神道、仏教、キリスト教が街の一角で共存している状態が続いている。五木寛之の著作には、入学したばかりの五木が、穴八幡の床下で寝ていて追い出された、という記述がある。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE



穴八幡宮

学生時代前はよく通りましたが、参拝はしたことなかったな。

メーヤウ食べたい。

猿江神社

猿江神社

東京都江東区猿江二丁目2-17

神社由来

一千年の由緒と国内最古のコンクリート造社殿

平安時代後期、源頼義・義家(八幡太郎義家)父子による奥州遠征(前九年の役)において、数々の奉勝を立てた家臣に『猿藤太』(さるのとうた)という武将がいた。
武勇の士と讃えられた人物であったが、此の地の入江で力尽きてしまった。
これを知った地元の漁師達が手厚く葬り、当社の境内に塚を建て葬った。
此に因んで猿藤太の「猿」と入江の「江」の字を取り結び「猿江」の社名になったと伝えられる。
神社としての正確な創立年代は不詳であるが、康平年中(一〇五八)頃には近在の信仰を一身に集め、稲荷社として境内地五百余坪を有したという。
また江戸時代には、神仏混合の風潮により京都妙連寺の末寺妙寿寺の僧侶が別当職として奉仕し、寺の隆盛とともに其の名を知らしめたと云う。
亦 築七十余年を経ている、国内でも最古の部類に入るといわれる鉄筋コンクリート造りの御社殿は、旧社殿が関東大震災にて焼失後、昭和六年に宮内庁設計技官の設計により当時としてはとても珍しい頑丈優美な造りの神社として再建された。
このため大東亜戦争の東京大空襲にて、近隣一帯(深川)が灰燼に帰した時も奇跡的に難を免れ、錦糸町の駅からは一面の焼け野原に建つ御社殿が望めたという。
昭和二十一年に伊勢大御神を合祀し、社名を猿江稲荷神社より改称してからも「猿江のお稲荷さん」として親しまれている。
一千年以上の歴史をもつとされる由緒深き神社である。

以上猿江神社ホームページより。 http://sarue-jinjya.o.oo7.jp/



猿江神社


宇喜田稲荷神社

宇喜田稲荷神社

東京都江戸川区北葛西4-24-16

当 稲荷神社(宇喜田稲荷神社)は、旧西宇喜田村(現・宇喜田町・北葛西・西葛西・中葛西にまたがる地域)の氏神様※1です。神社近辺は慶長期(江戸幕府開府前後)に小田原北条氏家臣・宇田川喜兵衛定氏が開拓した地域であり、後に『宇喜田(うきた)』と呼ばれるようになりました。寛永20年(1643)に当神社が創建されたと伝えられています。

以上宇喜田稲荷神社ホームページより。 http://www.ukita-inari.net/history.html



宇喜田稲荷神社

宇喜田

宇喜田 (2)

御朱印は社務所で書置きをいただきました。

波除稲荷神社

波除稲荷神社

東京都中央区築地6丁目20−37

明暦の大火後、築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事は難航した。その最中のある晩、光を放ち漂う御神体が見つかり、万治2年(1659年)、現在地に社殿を建て祀った。その後、波が収まり工事が順調に進んだことから、以降厄除けの神様として信仰を集めることとなった。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E9%99%A4%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE



波除稲荷神社


廻るすしざんまい

せっかくの築地やし、廻るすしざんまい行ってきた。美味いな!!流石築地ですわ。

十二社熊野神社

十二社熊野神社

東京都新宿区西新宿2丁目11−2

当神社は中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間(1394年 - 1428年)に創建されたものと伝えられている。(天文・永禄年間に当地の開拓を行った渡辺興兵衛という人物が祀ったという異説もあり)鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。鈴木九郎は当初自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。かつて存在した付近の地名「十二社」(じゅうにそう)はこれに因んでいる。この地名は現在でも通り(十二社通り)や温泉(新宿十二社温泉)の名などに見られる。

神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれていた。江戸時代あたりから付近には茶屋や料亭などが立ち並びやがて花街となっていった。最盛期には茶屋や料亭が約100軒も並んでいたという。この賑わいは戦前まで続いていた。

その後明治時代に入り名が熊野神社となり、その後神社の滝や十二社池は淀橋浄水場の造成や付近の開拓により姿を消し景勝地としての様相は徐々に見られなくなっていった。しかし、熊野神社はその後付近が日本有数の高層ビル街と変貌した現在でも新宿一帯の守り神として人々から信仰を得ている。

祭神は櫛御気野大神・伊邪那美大神。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA)



十二社熊野神社

s-十五社熊野
仕事の資格の講習を受講するために新宿に来ました。

職場の人たちも一緒に来たんですが、別の講習を受けているので、自由に行動します。

s-十五社熊野 (3)
手水舎

s-十五社熊野 (4)

s-十五社熊野 (2)

s-山形蕎麦
山形の肉そば。

やっぱり休日まで職場の人間と一緒に行動するのはしんどいですね。講習終わったらさっさと退散しました。

プライベートまで仕事に侵食されるのはだるいですわ。

市ヶ谷亀岡八幡宮

市ヶ谷亀岡八幡宮

東京都新宿区市谷八幡町15

当神社は太田道灌が文明11年(1479年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転[1]。 市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという。その後明治に入り、神仏分離令により別当寺であった東円寺[2]が廃寺となり(1872年)、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられかつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失。1962年に現在の社殿が再建される。現在でも地域の人々などから信仰を得ている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E8%B0%B7%E4%BA%80%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE



市谷亀岡八幡宮

茶の木稲荷神社


茶ノ木稲荷神社の御朱印もこちらでいただけます。

市ヶ谷は駅の下の釣り堀でスーツを着たリーマンが釣りを楽しんでいていいですね。平和やなあ。