長崎県の御朱印

玉園稲荷神社

玉園稲荷神社

長崎県長崎市上西山町18

玉園稲荷神社

鎮西大社諏訪神社の授与所にて御朱印いただけます。

玉園稲荷神社 (1)

諏訪神社の裏手に向かって階段が続いています。

玉園稲荷神社 (2)

お稲荷さんの鮮やかな赤い鳥居。

玉園稲荷神社 (3)

玉園稲荷神社 (4)

キツネ

玉園稲荷神社

キツネ

玉園稲荷神社 (5)

手水舎

玉園稲荷神社 (8)

抱き大楠

玉園稲荷神社 (6)

玉園稲荷神社 (7)

お金持ちになれるよう祈願。

ランタンフェスティバル (4)

友人とも合流し、長崎の街に繰り出します。

ランタン祭りの時期なんですね。

ランタンフェスティバル (3)

商店街。人が多いです。

ランタンフェスティバル (1)

ランタン。

ランタンフェスティバル (2)

川沿いがランタンで彩られています。

思案橋

行くか戻ろか思案橋

五人百姓 (2)

五人百姓さんでお酒を飲みました。

芋焼酎ソーダ割りおいしい。

グラバー園 (1)

友人の家で一泊し、翌日はベタに長崎観光。

世界遺産であるグラバー園。

グラバー園 (9)

グラバー亭は工事中でした。

グラバー園 (10)

グラバーさん。

グラバー園、結構展示資料がっつりあっておもしろかったです。

大浦天主堂 (3)

これまた世界遺産の大浦天主堂。

大浦天主堂

観光に来たら世界遺産は外せませんな。

ちゃんぽん

ベタに長崎ちゃんぽんを食べてカステラを買って長崎観光終了。

長崎市は有名スポットが集中していて観光しやすいですね。頑張れば四国からも来れると証明されましたし要再訪ですね。

鎮西大社諏訪神社

鎮西大社諏訪神社

長崎県長崎市上西山町18-15

弘治年間より長崎に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社が起源である。弘治元年(1555年)に、長崎織部亮為英が京都の諏訪神社の分霊を、現在の風頭山の麓に奉祀したのが始まりという説と、東松浦郡浜玉町の諏訪神社を勧請した説がある。戦国時代に当地はキリスト教徒の支配地となり、当社を含めて領地内の社寺は全て破壊された。江戸時代に入った後の寛永2年(1625年)、長崎奉行・長谷川権六や長崎代官・末次平蔵の支援により松浦一族で唐津の修験者であった初代宮司青木賢清(かたきよ)が、円山(現在は松の森天満宮の鎮座地)に三社を再興し、長崎の産土神とした。正保4年(1641年)に幕府より現在地に社地を寄進され、慶安4年(1651年)に遷座した。安政4年(1857年)9月に火災により焼失したが、孝明天皇の勅諚により明治元年(1868年)に再興した。

大正10年に国幣中社に列格し、第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE



鎮西大社諏訪神社

らいらい亭

金曜日の午後8時。来来亭で腹ごしらえをして出発します。

今回の旅は友人の借金大王も同行します。

夜の高速

夜の高速道路をひた走る。

目的地は長崎。転勤した友人に会いに行きます。

トラック

夜のサービスエリアの大量のトラック。

我々も夜のうちに少しでも長崎に近づかないといけない。

初日は日付が変わった深夜1時半に借金大王が眠気と疲労で限界が来たため防府の快活クラブで就寝。

美東サービスエリア

快活クラブは意外と広くて快適でした。

美東サービスエリアで朝食をとります。

幕末カツカレー (1)

山口県は幕末を推しますね。

幕末カツカレー (2)

朝からカツカレーを食す。美味。

ラーメンスタジアム (3)

山口県を抜け九州上陸。

借金大王が博多に行きたいとわがままを言うので博多に立ち寄る。

ラーメンを食べよう。昨日も食べたけど。

ラーメンスタジアム (2)

行きの高速で久留米運送の車をよく見かけたので久留米ラーメンを食べることに。

ラーメンスタジアム (1)

日ごろ徳島ラーメンばっかり食べてるからたまに違うラーメンを食べるのもいい。

諏訪神社 (13)

借金大王が博多に立ち寄ったため大幅に旅程が遅れ、しかも参道への道を間違いやっとのことで鎮西大社到着。

石段を駆け上る。

諏訪神社 (2)

手水舎

諏訪神社 (11)

トゲ抜き狛犬

諏訪神社 (12)

諏訪神社 (8)

諏訪神社 (10)

諏訪神社 (1)

諏訪神社 (3)

さざれ石

諏訪神社 (7)

諏訪神社 (6)

諏訪神社 (5)

社務所がぎりぎり開いている時間でしたので御朱印をいただくことができました。

もっと時間に余裕を持たないといけないと反省しました。

天手長男神社

天手長男神社

長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730

天手長男神社(あめのたながおじんじゃ[2][3][4]、あまのたながおじんじゃ[5][6][7])は、長崎県壱岐市にある神社。式内社(名神大社)論社、壱岐国一宮後継社で、旧社格は村社。

『延喜式神名帳』に載る式内名神大社で壱岐国一宮の天手長男神社に比定されているが確証は薄い(後述)。

歴史
宗像大社(福岡県)の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(玄界灘の沖ノ島)に立てたという。天手長男(と天手長比売)の社名はこの「御手長」に由来するという。

弘仁2年(811年)に「天手長雄神社」(アメノタナガヲ‐)として創建、後に「天手長男神社」。『大日本国一宮記』(『一宮記』)には、天手長男神社と天手長比売神社が物部村にあり、天手長男神社を壱岐の一宮としたとある[1]。『一宮記』では天思兼神を祭神としている[6][10]。

その後、元寇により廃れてしまい、所在も不明となっていた。

現在の天手長男神社は、江戸時代にそれまで「若宮」と呼ばれていた小祠を平戸藩の国学者、橘三喜が名神大社の天手長男神社に比定したものである。三喜は、当神社の位置する「たながお(たなかを)」という地名から天手長男神社は田中触にあるものと推定した。そして、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡1面、弥勒如来の石像2座を掘り出し、石祠を造って祀った。延宝5年(1677年)に発見された弥勒如来像には延久3年(1071年)の銘があり、後に重要文化財に指定され2012年現在は奈良国立博物館に保存されている[4][11]。元禄元年(1688年)には松浦藩主の命により社殿が作られた。

なお、三喜の式内社の査定は地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれている。天手長男神社については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府(こう)のことであると考えられ、境内社に壱岐国総社もあることから、興神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一宮であるとする説が有力となっている(橘三喜は興神社を式内小社「與神社」に比定しているが、これは興と與を見誤ったためと見られる)。

合祀されている天手長比売神社も橘三喜の査定によるものであり、本来の天手長比売神社の所在地は不明である。物部布都神社も、「田中触が物部(ものべ)村に属しているから」という理由で比定されたものであり、近年の研究では渡良浦の國津神社が本来の物部布都神社であったとされている。なお、平安時代に存在した森部郷は、江戸時代の物部村や、平成時代の田中触・渡良浦ほかを含む地域と比定されている[12]。

もっともそうした経緯はともあれ、現在では当神社が壱岐国の一宮とされ、天手長比売、物部布都の両神社の神も合祀されている。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%89%8B%E9%95%B7%E7%94%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE



天手長男神社

天手長男神社 (2)
天気が悪くなってきましたが到着。今回のたびの最後の神社です。

天手長男神社 (1)
こちらの神社が最後になったのは、事前にアポ取りして時間を設定していただいたからです。

不在が多いから、事前連絡をしたというわけです。

天手長男神社 (3)
その結果無事に御朱印をいただくことができました。

天手長男神社 (4)
私以外にも数名参拝者がいました。1人は一宮朱印帳をもっていたので、私と同じ目的の人でしょう。お疲れ様です。

壱岐港のごはん
まだ時間はありますが、雨が降ってきたのでフェリー乗り場に避難。晩ごはんを早めに食べます。博多港に着いたら20時ですからね。

壱岐の帰りのフェリー (1)
どんどん暗くなってきました。雨も降ってます。

帰りの船が来ました。

壱岐の帰りのフェリー (4)
この後、博多港からひたすら土砂降りの中、別府まで走りました。別府港ついたら日付変わってました。

この季節に雨の中4時間以上バイクは危険と学びました。凍えて体が動きません。

次の日もひたすら雨で、八幡浜から6時間ほどかけて家に帰りました。

バイクから降りたら体がぶるぶる震えてまともに歩けませんでした。湯船に浸かってなんとか復活しました。

この旅が終わってから無性に温泉に入りたいのは、凍えた後遺症でしょうか。

壱岐神社

壱岐神社

長崎県壱岐市芦辺町瀬戸浦103

壱岐神社(いきじんじゃ)は、長崎県壱岐市に鎮座する神社である。

祭神
亀山天皇・後宇多天皇・少弐資時公を主祭神とする。

概要
祭神の亀山天皇、後宇多天皇は元寇の役に日本国の危き時に国家安泰を祈願した。また祭神の小弐資時公は元寇で命を捧げた。 祭神は、国難事変に際して神威を顕し、平時に於ては国家の平和を護り給う神々である。 壱岐島民は昭和3年(1928年)以来、壱岐神社御創建の事業を進め、昭和19年(1944年)本殿の建設を実現した。昭和23年(1948年)11月3日に御祭神三柱の鎭座祭を執行し、同27年(1952年)には壱岐護国神社の鎭座祭を執行した。壱岐で一番新しい神社である。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B1%E5%B2%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE



壱岐神社
書置きをいただきました。

壱岐神社 (1)
岬の端っこみたいなところに鳥居が見えたので到着。

てか、手前に大きなイオンがあったことにおどろいた。イオンって壱岐にまで出店してるんか。

壱岐神社 (2)
護国神社も兼ねてるんですね。

壱岐神社 (3)
中原喜三郎さんの像。

壱岐神社 (4)

壱岐神社 (5)
小弐資時さんの名前がありますね。19歳で戦死されたそうです。それで祀られているんですね。

壱岐神社 (6)
護国神社を兼ねている理由がなんとなくわかるような気がしました。

国片主神社

国片主神社

長崎県壱岐市芦辺町国分本村触1369

国片主神社 (2)
書置きをいただきました。

国片主神社 (1)
聖母宮で教えてもらった神社に来ました。

国片主神社 (2)

国片主神社 (3)

国片主神社 (6)
まわしてみました。

国片主神社 (7)
なでてみました。

国片主神社 (4)

国片主神社 (5)
次は港のほうに戻ります。