鹿児島県の御朱印

新田神社

新田神社

鹿児島県川内市宮内町1935-2 

新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ[1])は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。薩摩国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

かつては八幡五所別宮の一つとして八幡神を祀っていた為、別に「新田八幡宮」・「八幡新田宮」・「川内八幡宮」・「一宮八幡」・「新田明神」等とも呼ばれていた。

社殿の背後に、皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト、ニニギノミコト)の陵墓とされる可愛山陵がある。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%B8%82)


新田神社

新田神社 (1)
指宿からめっちゃ時間かかった。迷子。

新田神社 (2)

新田神社 (3)
本来の予定では八代宮も参拝するつもりでしたが、八代入りした時点で夜中になっていたので断念。

ルートの確認の大切さを実感しました。

枚聞神社

枚聞神社

鹿児島県揖宿郡開聞町十町1366

枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、鹿児島県指宿市開聞十町にある神社。式内社、薩摩国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。

歴史
創建の年代は社伝によれば、遠く神代とされているが、神社の縁起には,和銅元年(708年)の創建と記されている。元々は開聞岳を神体とする山岳信仰に根ざした神社であったと考えられ、当初は開聞岳の南麓に鎮座していたといわれているが、貞観年間の噴火により揖宿神社の所に一時避難、その後北麓の現在の場所に遷座されたという。

信頼できる史料での初出は『日本三代実録』貞観2年(860年)3月20日庚午条の神階昇叙記事で、この日に薩摩国従五位上開聞神が従四位下を加えられた[3]。開聞神は、貞観8年(866年)4月7日に従四位上を授けられ[4]、元慶6年(882年)10月9日に正四位下を授けられた[5]。

延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には「薩摩国穎娃郡 枚聞神社」として記載され、式内社に列している。

大正14年8月の「枚聞祭神調書」によれば、当神社は後鳥羽天皇の文治の頃から後陽成天皇の慶長4年までは、和田都美神社と称せられていたと伝えているので、当時の祭神は和田都美神であったと思われ、「神名帳頭注」(1503年)も和田都美神としている。「一宮記」にも「和田都美神社、枚聞神と号し」との記述があるが、祭神は塩土老翁猿田彦神としている。「三国名勝図会」と「神社撰集」は共に猿田彦神としており、明治維新の「廃寺方被仰渡」では国常立尊、大日孁貴、猿田彦大神の3座を祭神としている。この他にも豊玉姫、木花開耶媛、大宮姫など当神社の祭神については古来より諸説がある[2]。

鎌倉時代以降は新田神社(薩摩川内市)と薩摩国一宮の地位を巡って激しい争いを繰り広げるようになる。戦国時代は島津氏の有力家臣であった頴娃氏の庇護下にあったが、元亀2年(1571年)に「証恩寺崩れ」と言われるお家騒動が起こり、その巻き添えとなって社殿を失った。しかし、すぐに島津氏の庇護を受けて再興、同氏は当神社の籤により作戦を決めたという。現在の社殿は慶長15年(1610年)に島津義弘が寄進したものを天明7年(1787年)に島津重豪が改築した物である。

外洋に面した立地から古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。

しかし江戸時代になると、宇佐八幡宮の五社別宮ともされていた新田神社の方が次第に重く扱われるようになったらしく、明治4年(1871年)5月に国幣小社に列したが、対して新田神社は同18年(1885年)に上位の国幣中社に列している。

第二次世界大戦後に近代社格制度が廃止されると、当社は神社本庁に参加、その別表神社に定められた。


当神社の本殿の裏に、木製の柵で囲まれた一角がある。この柵の中は、地面に大小様々な大きさの石が敷き詰められているが、ここは「清所」と呼ばれている場所で、言い伝えでは豊玉姫の御陵であるともいわれている。

当神社の近くには、豊玉姫と彦火々出見尊が出会ったとされ、日本最古の井戸ともいわれる「玉の井」があり、古事記 上巻や日本書紀巻第二 神代下・第十段の本文、第十段の一書(第一)、一書(第二)、一書(第四)などに記されている井戸であるとされる。また彦火々出見尊と豊玉姫の結婚後の新居があったとされる「婿入谷」という所もある。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9A%E8%81%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE


枚聞神社

枚聞神社 (1)
温泉で有名な指宿ですね。鹿児島市からはちょっと時間かかりました。

枚聞神社 (2)
駐車場も混んでるし、結構参拝客多いです。

枚聞神社 (3)

枚聞神社 (5)

枚聞神社 (6)

枚聞神社 (7)
この後、薩摩川内市へ向かうもめっちゃ迷うことに。鹿児島の道は難しい。

鹿児島神宮

鹿児島神宮

鹿児島県姶良郡隼人町内2496

鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある神社。式内社(式内大社)、大隅国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。かつては「大隅正八幡宮」「国分八幡宮」などとも称されていた。

歴史
創始は社伝によると遠く神代とも、あるいは「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされる。和銅元年(708年)に現在地に遷座され、高千穂宮跡の旧社地には現在摂社石体宮(石體神社)が鎮座している。当社の北西13kmの地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。

欽明天皇5年(544年)に八幡神が垂迹したのもこの旧社地とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇の代のことであるという。」との記載がある。

八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。

大隅正八幡の正の字が示すように、鹿児島神宮は八幡宮の根本社だともいわれている。伝承ではかつて国分八幡と宇佐八幡との間に、どちらが正統な八幡かを巡って争いが起き、宇佐八幡は密かに15人(14人とも)の使者を遣わして国分八幡を焼かせたという。その際、燃え上がる社から立ち上る黒煙の中に「正八幡」の字が現れ、それを見て驚き怖れた使者達は溝辺の地まで逃れてきたが、神罰を受けたのか次々と倒れてその数は13人に及んだ。その後土地の人々は異境に死んだ者たちを憐れみ、それぞれが倒れた場所に塚を盛り霊を慰めたが、その数が13であったことから、そこを十三塚原と名付けたといわれている。この十三塚原は鹿児島県の国分平野北方にあり、その北東部には鹿児島空港やこの伝承に基づく十三塚原史跡公園がある。この宇佐八幡の使者に関する伝承には、上記と内容の異なる伝承が他にもいくつかある。

信頼できる史料での初出は、醍醐天皇の時に編纂された『延喜式神名帳』に「大隅国桑原郡 鹿児嶋神社」とあるもので大社に列しており、日向、大隅、薩摩のいわゆる南九州では最も格の高い唯一の式内大社である。その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人をその神職より輩出した。

平安時代に宇佐八幡が九州五所の八幡別宮を勧請したのに伴い、当社に八幡神が合祀されたともされている。それ以降、正八幡宮・大隅正八幡宮・国分八幡宮などとも称される。

戦国時代から江戸時代には、地元の大名である島津氏の尊崇を受けた。

1874年(明治7年)に神宮号宣下及び近代社格制度において官幣中社に列し、1895年(明治28年)に官幣大社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社となった。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE



鹿児島神宮

鹿児島神宮 (1)

都農からひた走り、なんとか到着。宮崎県の道はのどかで走りやすくて楽しかったです。

鹿児島神宮 (2)

鹿児島神宮 (3)

鹿児島神宮 (4)

鹿児島神宮 (5)
行列ができております。

鹿児島神宮 (6)
このあともう一社参拝したかったけど、時間的に難しいので天文館で宿泊。

人と来てたら飲みに行くんですが、独りなのでおとなしく就寝。要再訪。