岡山県の御朱印

玉井宮東照宮

玉井宮東照宮

岡山県岡山市中区東山1-3-81

玉井宮東照宮(たまいぐうとうしょうぐう)は、岡山県岡山市中区の東山丘陵にある神社。祭神は豊玉比売命、彦火火出見命、玉依比売命、徳川家康公。旧社格は県社。

玉井宮は、元来、児島半島東端の児島郡小串村大字光明崎(現・岡山市南区小串)に鎮座していた。応徳2年(1085年)当地に玉井宮として移転遷座した。この時の祭神は豊玉比売命1柱のみであったと伝えられている。

玉井宮遷座にはつぎの伝承がある。遷座した年の応徳2年、社頭より夜ごと怪しい光が発せられ、このため魚が寄りつかなくなり漁師は不漁で困っていた。そこで神前にお伺いをたてたところ、「御幣が舞い上がり、飛んで立ったところに遷座するように」との御神託があった。その御幣が立ったところを幣立山と呼び遷座した。そして、この宮を「玉井宮」または「玉の宮」と呼ぶようになった。

正保2年(1645年)岡山藩主池田光政は、この地に東照宮を勧進した。また、玉井宮は前の広場(現在の駐車場)に移転された。江戸時代になって玉井宮の祭神として、新たに彦火火出見命、玉依比売命の2柱が合祀された。

上記のように、玉井宮と東照宮は場所を同じくしていたが別々の神社であった。明治時代になり、明治14年(1881年)玉井宮と東照宮が合祀された。社名は玉井宮東照宮となり、県社に列格した。明治33年(1900年)旧玉井宮の建物を移転し、拝殿の建立が行われ、境内が整備された。

太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山空襲では、本殿や鳥居に焼夷弾が落下し一部破損したが概ね無事であった。

昭和22年(1947年)操山の山上にあった旧県社・三勲神社を、祭祀が出来なくなったため玉井宮東照宮の境内に遷座した。

平成元年(1989年)1月31日未明に不慮の火災により、幣拝殿・神饌所・社務所・参集所などを焼亡した。その後5年の歳月を掛けて再建された。

以上ウィキペディアより。

玉井宮東照宮

玉井宮東照宮 (1)
護国神社の近く。細ーい道を登る必要があります。神社の駐車場って険しい立地のこと多いですよね。

玉井宮東照宮 (2)
駐車場前の摂社。

玉井宮東照宮 (4)

玉井宮東照宮 (3)

玉井宮東照宮 (5)

玉井宮東照宮 (6)

玉井宮東照宮 (7)

玉井宮東照宮 (8)

玉井宮東照宮 (9)
紅葉が。

玉井宮東照宮 (10)

玉井宮東照宮 (11)

玉井宮東照宮
本殿の中に羊が。驚きました。

牛丼とくもり
牛飯特盛を食して、用事を済ませて帰る。異様な荒天で疲弊。悪天候時の運転はつらい。

岡山懸護國神社

岡山懸護國神社

岡山県岡山市中区奥市3-21

岡山県護国神社(おかやまけんごこくじんじゃ)とは岡山県岡山市中区奥市にある護国神社である。旧社格は内務大臣指定護国神社で、戦後別表神社となった。

境内には戦死者の慰霊碑が数多く建立されており、シベリア抑留者や宇垣纒海軍中将と十七勇士の菊水慰霊碑などがある。
岡山藩主であった池田章政が、1869年(明治2年)4月3日に現在の後楽園公園裏竹田河原に於て、奥羽戦争戦死者である雀部八郎時宜など34柱の招魂祭を挙行し、6月に上道郡門田村幣立山地180坪に社殿と碑石を建立し、奥羽、函館両戦争戦死者を祭祀したのが起源である。

1874年(明治7年)3月17日に官祭となり、岡山招魂社となった。1922年(大正4年)に現在地に移転、4月26日に社殿が竣工した。1939年(昭和14年)4月1日に内務大臣指定と共に「岡山縣護國神社」と改称した。戦後の一時期は連合国の占領政策により「操山神社」としていたが1952年(昭和27年)に現在の名称に復帰した。また戦後になり改修工事などが行われている。
以上ウィキペディアより。

岡山懸護国神社

岡山懸 (1)
仕事の関係で岡山へ。なぜか寝付けなくてクッソ眠い。

岡山懸 (10)

岡山懸 (11)
平和の女神像。

岡山懸 (2)

岡山懸 (3)

岡山懸 (6)
平和の翼。

岡山懸 (4)
慰霊塔。

岡山懸 (5)

岡山懸 (7)

岡山懸 (9)
千羽鶴もいっぱいありますね。

厄除け総本山由加神社本宮

厄除け総本山由加神社本宮

岡山県倉敷市児島由加2852

日本三大権現の一つ、また厄除けの総本山として知られる由加山 由加神社本宮は二千有余年の歴史を持つ神仏混淆のお山。
その昔、磐座信仰(巨岩をご神体)と唱え近郊の人々の守護神として崇められ、その後七三三年(天平五年)に行基菩薩が十一面観音を祀り、併せて神仏混淆の霊山として崇拝されてきました。
桓武天皇の代以来、朝廷の祈願所として繁栄し、拝殿には菊花ご紋章を拝受しております。
江戸時代中期には備前藩主池田侯の祈願所として当権現・由加大神様への信仰は篤く、正月・五月・九月には藩主自らご参拝になられておりました。(その時ご参拝になられた建物が由加神社本宮ご本殿です)
また、『ゆがさん・こんぴらさん両参り』と云われ、両社をお参りすればご利益が沢山頂けるという『両参り』の風習が広がり、今も全国津々浦々から信仰されております。
過去の歴史などから見ても由加の権現様・大神様は『有求必應』“求めが有れば必ず應じて下さる神様”として、参拝者祈願者が後を絶たないのが現状です。

以上ホームページより。

由加山

由加山 (1)
今回の総社~倉敷ツアー。最後は由加山に行って終わることにします。道中で鳥居発見。

由加山 (2)
着いた。観光地っぽくていいですね。

由加山 (3)
厄を落としに行くぜ。

由加山 (4)
石段上るぜ。

由加山 (5)

由加山 (6)

由加山 (7)

由加山 (8)
焼き物の鳥居が。

由加山 (9)

由加山 (10)
浅草寺にある感じの線香燃やすスペース。

由加山 (11)
これって煙を浴びるタイプのやつなんですかね。作法は書いてないですけど。

由加山 (14)
タコがいます。海の神=タコなのか。

由加山 (12)

由加山 (13)
立派な神社でした。

で見カツ丼
サービスエリアで御当地グルメのデミカツ丼を食して帰路に就く。

車はカーナビがあるから迷子にならないのはいいけど、狭路には弱いですね。

PCXの良さを思い出した旅でした。また原付ツーリングいこっと。

木華佐久耶比咩神社

木華佐久耶比咩神社

岡山県倉敷市福江1671−4

当社は本国総社神名帳に神階従4位下木華佐久耶比め明神と記載され、備前国式外128社の内の一つである。 また中世から明治に至るまで福南山明現宮と称され、熊野五流一山の修験道場として栄え、近世においては備前池田藩累代の御祈願所として崇敬された。
 木華佐久耶比め命は、大山祇命の御子であり、天照大神の御孫、瓊々杵命の御妃となられ、桜の花の如く心身ともに麗しく日本国最古の国母の女神である。
 戦前戦中崇敬者は、県南全般に及び福南山の神社として広く知れ渡たっていた。しかし、戦後昭和23年不審火により社殿を焼失、現在参上には奥宮として石祠を残すのみとなった。
 昭和28年から昭和51年にかけ山麓の現在位置に社殿を再建し、その後平成12年幣殿、拝殿を改築し荘厳なる社殿に一新された。その他境内の整備にもつとめ、祭神に相応しく桜の植樹にも力を入れた。また、山頂の展望台からは瀬戸内海の島々が眺望できる。

以上岡山県神社庁より。

コノハナサクヤヒメ神社
書置きをいただきました。

コノハナサクヤ神社 (1)
ナビに従うと池の横のガードレールもない道を案内される。ホンマにこれが順路なのか。。

コノハナサクヤ神社 (2)

コノハナサクヤ神社 (3)

コノハナサクヤ神社 (4)

コノハナサクヤ神社 (5)

コノハナサクヤ神社 (6)

コノハナサクヤ神社 (7)

コノハナサクヤ神社 (8)
こちら女子力アップの神社とのことで、女性の方が一名参拝されてました。

コノハナサクヤ神社 (9)
帰り道に、普通の道があったことに気づきました。カーナビさん頑張ってほしいです。

福田神社

福田神社

岡山県倉敷市北畝3丁目14−53

当社は、福田新田旧五箇村(北畝、中畝、南畝、松江、東塚)の地が、嘉永5年から開墾されたのにともない、その地区の産土神として勧請され、文久2年に社殿を造営し、明治4年に創建された。
 御祭神は、天照大神、倉稲魂命、大國主命の三柱を主祭神として奉斎し、相殿に綿津見神、御年神を併せ祀っている。
 当社は、福田地区及び水島地区の総鎮守として篤く崇敬され、特に、方災厄除、商売繁昌、交通安全に御利益があるとされており、その御神徳から岡山県内を始め各地からの参拝者も多い。
 御本殿は、一間社入母屋造(前千鳥破風、向拝軒唐破風)檜皮葺で総欅造、塩飽大工の作といわれる。俗に、八棟造、王子造とも呼ばれ、三手先組にて彫刻が多く用いられているのが特徴で、屋根の曲線が美しく壮麗な造りとなっており、創建当時の姿を今にとどめている貴重な建物である。
 又、御祭神に天照大神を奉斎していることも関係し、伊勢の神宮に対しても崇敬の念深く、第61回神宮式年御遷宮に際しては、神宮司庁から神宮古殿社撤去材を払い下げされ、平成9年に「平成の御造営」として社殿(拝殿、中殿、祝詞殿)を改築した。

以上岡山県神社庁より。

福田神社

福田神社 (1)
こちらの神社は平地にあるので駐車しやすいですね。既に狭小路がトラウマになっています。

福田神社 (2)

福田神社 (3)

福田神社 (4)
きれいに管理が行き届いた雰囲気の神社でした。