静岡県の御朱印

三嶋大社

三嶋大社

静岡県三島市大宮町2-1-5

御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。

中世以降、武士の崇敬、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願しました。神助を得てこれが成功するや、社領神宝を寄せ益々崇敬することとなりました。この神宝の中でも、頼朝の妻、北条政子の奉納と伝えられる 国宝「梅蒔絵手箱 及び 内容品 一具」は、当時の最高技術を結集させたものとして知られています。

頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬篤く、又、東海道に面し、伊豆地方の玄関口として下田街道の起点に位置し、伊豆国 一宮として三嶋大明神の称は広く天下に広まっていきました。

その後、明治4年の近代の社格制度では、官幣大社に列せられています。又、平成12年には、御本殿が重要文化財に指定され、当社の文化的価値の高さも再認識されています。

以上、三嶋大社ホームページより。 http://www.mishimataisha.or.jp/shrine/



三嶋大社


伊豆国一の宮です。

三嶋大社

三嶋大社 (2)

三嶋大社 (8)

三嶋大社 (9)

三嶋大社 (15)

お祭りでにぎわってました。

富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社

静岡県富士宮市宮町1-1

「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。
その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。

以上、富士山本宮浅間大社ホームページより。 http://fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html


富士山本宮浅間大社

浅間大社

浅間大社 (3)

浅間大社 (4)

浅間大社 (6)

浅間大社 (7)

浅間大社 (9)

浅間大社 (15)

富士宮のビジネスホテルを出て、早朝に参拝しましたが、御朱印いただけました。

事任八幡宮

事任八幡宮

静岡県掛川市八坂642

創建時期は定かではないが、社伝では成務天皇の治世としている。古くは真知乃神(まちのかみ)、任事神社(ままのことじんじゃ)などと呼ばれ、『延喜式神名帳』には「己等乃麻知神社」と記載されている。

大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征の折、桓武天皇の勅命によって、それまで鎮座していたすぐ北側の本宮山から現在地へ遷座させたと伝えられる。平安時代後期に八幡信仰が広まると、康平5年(1062年)、源頼義が石清水八幡宮から八幡神を勧請し、日坂八幡宮(にっさかはちまんぐう)や八幡神社(はちまんじんじゃ)とも称されるようになった。

東海道沿いにあって、難所であった小夜の中山の西側の麓にあたることや、「ことのまま」の名が「願い事が意のままに叶う」の意味を持つことから、多くの人が旅の安全や願い事成就を祈るため立ち寄り、また江戸幕府も朱印高百石余りを献上するなど崇敬を集めた。また古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場している。

明治以降は県社に列し、単に八幡神社と称した。第二次大戦後に「ことのまま」の名を復活させ、事任八幡宮とした。

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E4%BB%BB%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE




事任八幡宮

遠江一宮の一社です。

事任 (2)

事任 (11)

事任

事任 (10)

事任 (8)
カップルが参拝していました。こちらの神社も車がないと駅から遠いですね。

この後、富士宮まで電車で移動して宿泊しました。ビジネスホテルで一休みです。

小國神社

小國神社

静岡県周智郡森町一宮3956-1

創祀は神代と伝えられ上代の事で詳らかではありませんが、延宝8年(1680)の社記によると、人皇第29代欽明天皇の御代16年(555)2月18日に本宮峯(本宮山)に御神霊が鎮斎せられました。後に、都より勅使が差遺せられ、山麓約6kmの現在地に社殿を造営し、正一位の神階を授けられました。

それ以来、年々奉幣に預り勅使が下向され、文武天皇大宝元年(701)春18日に勅使奉幣の際、特に十二段の舞楽を奉奏されました。 延喜7年(907)の延喜式では式内社に列せられ、中世には武将をはじめ朝野の崇敬が極めて篤く近世に至りました。

元亀3年(1572)の戦では、徳川家は御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛治宗近作の太刀を奉り戦勝を祈願した後、社殿を全て焼失しました。天平3年(1575)に勝利を得た徳川公は、御本殿の造営、拝殿・楼門を再建され、更に社領五百九十石の朱印を奉り、以降代々の徳川将軍家より、社殿の改造・修復料を寄進されました。

明治6年6月13日に国幣小社に列せられ、明治15年3月に再度の火災により御本殿以下建造物などことごとく失いましたが、明治19年に復興され現在に至っております。

平成17年には御鎮座一四五〇年祭が斎行され、「遠江國一宮さま」として崇敬され親しまれております。

以上、小國神社ホームページより。 http://www.okunijinja.or.jp/beliefs/



小国神社

小国神社 (2)

小国神社 (3)

小国神社 (5)

小国神社 (9)

小国神社 (13)

駅からキャリーバックを引いて山道を歩きました。死ぬかと思いました。みなさん、お車での参拝をおすすめします。

井伊谷宮

井伊谷宮

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991-1

明治維新の際、建武中興に尽力した人々を祀る神社が次々に作られた中の一つである。彦根藩の知藩事・井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治2年(1869年)にその手伝いをするよう命じられた。井伊谷は井伊氏発祥の地で、宗良親王は井伊道政と井伊高顕に助けられ、この地で死んだと伝えられていた[1]。翌明治3年(1870年)の春に完成した神社は、はじめ宗良親王御社といったようだが、明治5年(1872年)1月23日に井伊谷宮に改称になり、2月12日に鎮座祭が神祇省の役人によって行なわれた[2]。

初め社格がなく、神官を置かず、宮内省式部寮の役人が祭祀を執行していたが、明治6年(1873年)6月9日に白峯宮(白峯神宮)、鎌倉宮とともに官幣中社に列せられた[3]

以上ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E8%B0%B7%E5%AE%AE



井伊谷宮


井伊谷宮 (22)

井伊谷宮

井伊谷宮 (2)

井伊谷宮 (12)

井伊谷宮 (9)

ここ、位置的に参拝苦労しました。